上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

理想と現実

人生とは理想通りにならないのは常で、それを、それでも自分を信じて迷わずに進み続けるとか(ゆず『栄光への架橋』)、それぞれ違うんだからいいじゃんって比較することをやめて受け入れるとか(槇原敬之世界に一つだけの花』)、まあ仕方ないかって諦めながらもどこかでやるせなさを感じたまま清濁飲み込んで生きていくとか(スガシカオ夜空ノムコウ』)、人それぞれのやり方で懸命に対処しながら生きているのだと思っています。

そんな中で、そんなこと忘れて踊っちゃえばいいじゃんと言ったのは井上陽水で(『夢の中へ』)、どこか第三者的なところにいながら醒めた目で抽象的に現実を炙り出す彼の歌がとても好きなのですが、そんな井上陽水の世界に非母語話者の立場から挑んだのがこの本。

井上陽水英訳詞集

井上陽水英訳詞集

時制とか人称とか、つくりの違う他の言語を通して鮮明になるものは確かにあって、読み進めるごとに、自分が今まで自覚していなかった記憶や感情を想起させるスイッチのようなものに気づかされているように思います。今の自分がいる立ち位置を客観的に見るツールは色々あるけれど、他の言語だとか、他の文化だとかを持つ部外者の目って大きいのかもな、と改めて思いました。

人知れず理想だけは高いのだろうと理解しつつはあるけれど(それと現実がどうなっているかは別)、果たして、思い通りにならない現実にこの先もどう折り合いをつけながら生きていくことやら。これからも、様々なものの見方を身につけたいと思います(取って付けたまとめ)。

過去の焼き直し

30余年も生きていると、過去の経験の応用で対処できることが多くなってくる。

生活の中に新鮮味を感じることがなく、過去の焼き直しで日々が過ぎている感じがある。前はあんなことやったな、今度はこうしよう、みたいな感じで、なんとなく日々は過ぎていくし、それなりに失敗もなく過ごすことはできるのだけれど、反面、今から新しいことを始める難しさも感じている。所与の条件下に合わせるように生きてしまって、「こんなものだろう」と思ってしまって、よくない。ある程度目の前にある未来は予測出来ていて、その予測からあまりそれることもないのだけれど、果たしてその予測は自分がなりたいと思っている、あるいはこうしたいと思っているものなのかというと、そうではないのではないか、という疑念が拭えない。なんていうか、必死さみたいものがない。50点を取ることもないけれど、120点を目指そうともしていなくて、常に80点を目指している。80点の取り方が、身に染みついてしまっている。

劇的に悪いこともあまりないのだけれど、劇的に素晴らしいこともなくて。なんとなく、こんなもんなのかなぁ、と思いながら、ただ、だらだらと過ぎていくというのが、30代の過ごし方なのだろうか?


Mr.Children 「未来」 MUSIC VIDEO

35回目の新年

今年も新年が明けた。

ステータス的には変わらないまま、また今年も同じように年を重ねている。一方で周りは着実に進んでいっており、年老いた両親もまた1つ歳を重ねたし、兄の子供もまた1つずつ学年が上がっている。従姉弟は2人とも結婚した。

2020年はコロナの影響もあり仕事的には全然良い年にはならず、またプライベートでも変化がもたらせるかなと頑張ったけれど結局いい結果は生まれず、進み先が見つからない1年となった。少しは自分のためにプラスとなる経験が出来ているのであればよいけれど、総括としてはあまり良い1年だった、とは言えない気がする。去年の今頃言っていたことから、大した変化はない。それなりに、もがいていた気はするんだけど。浮上しない。

政府の指示もあり会社の方針で最初の1週間は仕事も始まらず、かと言って家に一人でいてもやることがない、というすごく宙ぶらりんな年明け。今日も、ただ消化するだけの有給休暇取得。特に何をするわけでもない。緊急事態宣言の再発令も噂されており、やろうと思っていた予定はキャンセルになりそうで、どうにも気分は上がってこない。

年賀状を、今年でしまいにした。1日に2枚だけ来ていたうちの1枚、小学校から実に20年間送り続けてきた先生にも、つい先ほど今年で終わりとする旨を記した最後の賀状を送付した。非礼を詫びたが、先生への詫びと同時に、自分の身とつながっているものを、1つずつ切り離していることに対する後ろめたさのようなものも感じている。しばりつけるものを切り離していくと確かに身は軽くなるけれど、一方で社会とのつながりを切り離している気もして、寂しくもある。

なんだか、自分の中で、自分がこうあるべきと思うものと、自分がこうありたいと思うものと、自分がこうなっているものが分裂していて、そのことが非常にストレスになっている。近づけようと懸命に試みているけれど、現実は全くうまくいかない。

今年は良い年にしましょう。

ほしいものリスト

今まで多少の不便さを感じながらもそれなりに済ませてきたものが、新しくいいものに買い替えることにより一気にQOLが上がる、という経験がいくつかあった。さらに、「良いものを買った結果、これまでやらなかったことをやるようになった」(=さっさと買えばよかった)というのもいくつかあった。形から入るモチベーションは確実にある気がする。

前回

前回から買ったもの

主にゴルフとランニング用品が多い。コロナ禍で再開したが、閉塞感のある毎日に少しの向上心と免罪符を与えてくれている。

  • フェアウェイウッド(5W)…昔重いだけで全然振れず、使えなくってクラブセットから外していたキャロウェイROGUEの5Wをゴルフパートナーで購入。軽いし振りやすいしよく飛ぶし曲がらないし、良いことしかない。早くコースで使うのが楽しみ。
  • ルコックの長袖シャツとセーター…冬用のゴルフウェアがなかったので買った。今までなんとなくそれっぽいセーターと長袖シャツで済ませてきたけれど、ゴルフウェアのほうがゴルフしに来た感が出る。笑
  • 撥水性のウインドブレーカー…アンダーアーマーのアウトレットで購入。2つ買うと割引だから、というので買ったけど、思いのほか良くて、ゴルフにランニングに重宝している。恰好を気にして今まで冬はあまり走らなかったけれど、これなら早く買えばよかった。
  • ランニングポーチ…これも普段カギくらいしか持ち歩かずに走っていたけれど、買ってみたらよかったものの1つ。Amazonで買ったマジックベルト式のやつが安いわりにズレず、とても使いやすい。
  • Buff、ランニング手袋…マスクの代わりにBuffと、ミズノのランニング用手袋を買った。これもウインドブレーカーと一緒で、それ専用のものを買うと気持ちも上がるし、走るようになる、というものなのかもしれない。やっぱり使いやすいし。
  • メッシュWi-FI…3階建ての実家で、リビング以外の部屋に中継器などを使ってもなかなか電波が届かず半ば諦めていたところ、Amazonサイバーマンデーで15,000円でメッシュWi-Fiを買ったら劇的に改善した。これまで我慢してたのは何だったんだ、ってくらい。技術の進歩は素晴らしい。
  • Clarksのサンダル…革の夏用サンダルを買った。今までベルト式サンダルをあまり履かずに来たけれど、それなりのものを買ったら履くようになった。履きやすく、それなりに安く買えて満足。
  • Milletのリュック…前から使っていたものが古く汚れてきたので買った。形はあまり望んでいたものがなくて、より山っぽくなっちゃったけれど、その分背負い心地は抜群。ただ、コロナ禍で残念ながら使う機会がない。
  • カバン…前から懸念になっていた革のカバンと、ボディバッグを買った。でも結局、革のカバンはちょっと妥協だった感は否めず。満足度は70%くらいか。ボディバッグは9割満足している。
  • 株…買えばよかった、と思っていたらコロナ禍で爆下がりしたので買った。口座開設だけしといてよかった。早速、それなりの利益を生み出しているが、将来はわからない。美味しいせんべいを優待で食えるのは嬉しい。

ほしいもの

物欲はなんとなく満たされているが、たぶん、身の回りのものでまだ生活を向上させるものはまだあるのではないかという気がしている。たぶん、衝動買いする。

  • 財布…前回から引き続きリストに入っているが、まだ買ってない。
  • カード入れ…これも。ことあるごとに見てはいるが、いいものに巡り合えていない。
  • ワイヤレスイヤホン…頑なに有線イヤホンを使い続けてきたが、そろそろ買ってもいいかなと思っている。ノイズキャンセリング付きにするべきか否か…。それなりのものを買ったほうが良いとは思っている。
  • シビックハッチバック…欲しいなあ。でも買わない。

まだ、間に合いますか。

年老いていく親を見て、子育てに追われる同期を見て、全く変化のない休日の過ごし方を見て、合理的で責任感ある仕事に取り組んでいる友人を見て、実感のないまま上がっていく肩書を見て、何のためにやるのかもわからないまま一向に成果の出ない仕事を見て、自分だけが同じステージに留まったまま、思うようにならないまま、周りの時間だけが先に進んでいくような強い焦りを感じている。最近の精神的不調の原因はそれに尽きる。たぶん、自分のステージが少しでも前に進んでいれば。あるいは多少でも自分の中で前に進めている確信があればここまで焦ることもないのだと思うのだけれど、「気づいた時には時すでに遅し」とならないようにと思いながら10余年を同じまま過ごしてきてしまったような気がしていて、本当に手遅れになる日が来るのを恐れている。

精神的停滞期

世の中の状態は少しずつでも良くなってきているのかもしれないが、私の精神上はどんどん後ろ向き度が増している。

働くってどういうことだっけ?とか、これ何のためにやってるんだっけ?とか、色々なもやもやが頭の中に沸き起こっては通り過ぎていく。仕事もプライベートも身の回りのあらゆることに価値が感じられなくて、投げやりになっている。色々なことがどうでもよくなっていて、(私から見て)価値が消えた世界で、淡々と日々目の前に立ち上がることを無為にこなすだけになっているような感じがする。でもそうこうしている間にも時は過ぎていく。

そういう状態にいるということは自覚できるようになった。昔だったらこんなとき、何をしていたんだろうか。音楽聞いて、うまいもの食って寝ていたら直った気もする。でも、一時的なものであるなら良いのだけれど、今回のトンネルは少し長そう。状況的にも、終わりが見えていない。そもそも、何を持って終わりとなるのかも定かでない気もする。

せめて少しずつでも、前向きな要素が身の回りにあると良いのだけれど。

ブルシット・ジョブ

ようやく邦訳が発売されたので、読んだ。まだ1回だけだが、よりよい理解のためにはもう何回か読まなければならないかもしれない。

1回読んでみた時点での感想。漠然とした徒然なる思いだけど、とりあえず書いて整理したいと思ったので書く。人に読ませるためのものではなく、自分自身の忘備のためであり、本の内容には詳しくは立ち入らない。

多くの人がなんとなく気が付いていながら、語らなかった、あるいは具現化できなかった概念について「ブルシット・ジョブ」という名前を付けた時点で著者の勝利だと思う。たぶん、読んでいる人の中では本の中で著者が定義している内容よりは幾分か広い意味で「ブルシット・ジョブ」という言葉は捉えられているのだろうけれど*1、多くの人が思い当たる節があったからこの本を手に取っているはずだし、多くの人が頷くところがありながらこの本を読み進めたのだと思う。

今の私自身の仕事も「ブルシット・ジョブ」の類だと思っている*2。12年前に就職活動をするときに漠然と考えていた「なんのために働くのだろう」という問いには実は自分の中ではまだ答えが出せていなくて、というより、年々その問いに対する疑問は大きくなっている。この本は、私の中でもやもやしていた部分に完全とは言わないまでも明快なイメージを与えてくれた*3ように感じる。でも、他の同種の問いとも同じだけれど、問題の理解の助けとはなれど、結局解決策は与えてくれない。著者は最後に1つの案としてベーシックインカム制を提案しているし、その通りとも思うけれど、おそらく実際の世の中はその通りにはならないだろう。私は12年前、官と民で就職先を迷ったときに、資本主義社会で暮らしを立てる以上、自分の生活も経済がベースとなったほうが自身の行動原理がより明確になるはずだと思って民間を選んだけれど、結局は経済活動も全ては権力と政治も含めた人間の総体的な活動の中にあるのであった。

最近少し感じていたこととして、20世紀がライン化とマニュアル化・標準化により「馬鹿でも出来る仕事」化を進めてきた時代だとしたら、21世紀(あるいは少しずれこんで22世紀になるかもしれないけれど)は「馬鹿に出来る仕事はいらない」時代になるのだろうと思っていた。AI化とロボット化によって単純作業が不要になり、人間が楽になる社会。でも、この本を読み、その考えを少し改めた。人間が権力と政治を持っている限り、この世から仕事はなくならない。世の中に対して価値のあるエッセンシャル・ワークはオートメーション化により今後さらにその場は奪われていく(そして、賃金も低くなっていく)が、むしろ、ブルシット的な仕事の割合はさらに増えていく。たぶん我々は、自分の仕事がブルシットだと思いながらも、仕事を続けていくしかない。

さて、この先に我々が取るべき態度は何なのだろう?自分に正直になるために「シット・ジョブ」に身を落とすのか、それとも、余裕のある経済的に豊かな暮らしをするために「ブルシット・ジョブ」を続けて道化を演じきるのか。でも、たぶん、12年前にこの知識を持って就職活動したところで、おそらくはもう一度同じ選択を繰り返すしかない、という気が何となくしている。会社人生10年の節目を迎えたが、この先にも会社人生はまだ20年以上も(あるいは我々の場合は30年、40年となるのかもしれない。Horrible。)続いていく。

うまくまとまらないけれど、1回読んだ時点での感想はこんなところ。入社同期が続々と転職をしていく昨今だけれど、まだまだ考え続けていくことになると思う。

ここからは余談だけれど、著者は人類学者。経済学的観点だけでもなく、政治学的観点だけでもなく、人類学の観点から総体的に我々の生活を見る視座だからこそ書けた視点なのかもしれない、とふと思った。学生時代、少しだけ人類学を齧ったけれど、今でも、基礎を身につける最初の必修の授業で、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」やカール・マルクスを課題図書として輪読したことを思い出す。マリノフスキーやレヴィ・ストロースみたいなのが人類学だと思っていた当時は「なぜだろう」と思いながら読んでいたけれど、総体的なものの見方を身につけられた*4ことは感謝している。この先さらに発展させた議論も期待していたが、残念ながら先日訃報が届いた。ご冥福をお祈りします。

*1:得てして使いやすい言葉は当初の定義よりより広い意味で捉えられるようになっていく。例えば「ゆとり世代」とか。

*2:業界的にはそうではない「エッセンシャル・ワーカー」の類に入るけれど、その中でやっている私自身の業務内容はまさしくブルシット・ジョブ的だ。

*3:コンサルタントロビイストが跋扈するアメリカの状況を理解しながら読むとより理解は進むため、日本とは幾分か状況が異なる部分もあるとは思う。それでも。大枠のところでは一緒だと思う。

*4:とまでは言えないけれど、そのような姿勢は取ろうと思っている

覚悟

覚悟が足らん、みたいなことはこれまでに幾度となく書いてきている。

歳を取ったらなんとなく覚悟みたいなものが出来るのかなぁ、と思いながらここまで生きてきたけれど、未だにそんな気配は見えやしない。なんだか、大学生くらいのメンタリティのまま、ずるずるとここまで来てしまっている。これで生きていくんだ、みたいなものを決めきれなくて、未だに、どこかに逃げ道を探しながら生きている。まだなんとなく、やり直せるんじゃないかなぁ、逃げられるんじゃないかなぁ、と思いながら生きている。

覚悟ってのは何なのかと思ってみたけど、退路を断つというか、これに拠っていくんだみたいな柱のようなものを決めることを指しているのだろう。自分の中では。なんか、柱がなくてまだぐにゃぐにゃなまま、流れに任せて生きているんだろうなあ。

30半ばにもなってこうだということは、これから先もきっとこうなのだろうか。こんな未来とは思っていなかったんだけどなあ。

配られたカード

なんとなく思ってたのと違う方向に行っている、みたいなことを前に書いた。

でもよく考えると必ずしも私の人生は思った通りのことばかりでもなくて、進学先の決定にだって、サークルの決定にだって、就職先の決定にだって色々と自分の意志と実力以外の運要素も絡んでいるし、アメリカに行くという選択も自分自身の意志とは違うところで決まったものだった。まあでもそれなりにいい経験になったと思ってはいるので、これから先もまあなんとかなるだろう、と前向きに鷹揚に構えることも必要なのかもしれない。配られたカードは、いつだって良かったのだ。決めるときはいつもどこかでは「えいやあ」でどれかには決めなければならない。

決めた先をどう良いものにしていくか、ということを考えたほうが幸せになる、というはこれまでの経験でも考えてきたことなのではないか。所与の環境下で、与えられたカードの中で最善を尽くすこと。もちろん、枠を決める自由度はある程度自分の手にあるけれど(だから思い悩む)、一度枠を決めてしまえば、あとはその枠の中でいかに泳ぐか、ということ。なんか最近の風潮では益々自分の意志に焦点があてられるようになってきていて、「やりたいこと」崇拝の風潮は一層高まっているように見えるけれど、そうではないなかでもどうするか、というのを考えてきたのがこれまでの自分だったのではなかったのか。

転職の自由度も高まっているし、世の中のステレオタイプみたいなものはどんどん崩れていて、簡単に枠が変えられる時代になってきている。ある意味、カードを全部捨ててまた引き直す、みたいなことも簡単に出来る世の中になってきている、と思う。自分の意志で色々決められるようになっているのはとても良いことなのだろうけれど、だからこそ、自由には選択のプレッシャーも伴うものなのだよ、ということを最近感じている。選択肢が多い、ということはそれだけ悩みやすいということなのだ。

大変な世の中になってきたものだなあ。

(後ろ向きに)変化の少ない毎日

コロナの影響により、家と職場を往復する生活になっている。たまの知人とのオンライン飲み会。

新しい人とほとんど会っていない。以前は飲み会なりなんなりで、新しい人と会う機会があったけれど、最近飲み会がないせいで新しい人と知り合う機会がほとんどなくなっている。当然、面白くない。変わり映えのしない日々。1日誰とも会話しない日も多くなった。

仕事も今の職場に来てから1年が経った。仕事の内容が変わり、足の長いプロジェクトにアサインされた。後ろ向きで、達成感の得難いプロジェクト。日々のカタルシスが得難く、個人としても、会社としても前に進んでいる感じはない。

世の中の状況も、あまり明るい状況とは言えない。緊急事態宣言が出た前回の感染拡大時にはなんとなく皆が同じ方向を向いていたような気がするけれど、今回はそれぞれが違う方向を向いてしまっているように思える。長く続いている苦境にだんだん皆が耐え切れなくなっており、不十分なデータのもとでそれぞれがそれぞれの主張を始めてしまっているように見える。本来は納得できるデータを示して統制を取るのが政治の役目なのだろうけれど、どうにも説得力も統制力も感じられない。あるいはそんなものはないのかもしれない。

あまり明るい材料は身の回りにない。今はちょっと耐え時なのかもしれないけれど、耐えた先に待っているものは何なのだろうか。果たして、明るい未来は待っているのだろうか。

耳障りのいい言葉

最近会社の採用担当に指定されていて、学生からの質問を受けることがちょくちょくある。OB訪問もよく受ける。

そんなとき、すらすらとよどみなく前向きな回答が自分の口から出てくることに驚く。物事には何事にも両面あると思っていて、言い方によってプラスにもマイナスにも捉えることが出来る。30年余り生きてきたからなのか、それとも会社人生10年間で培ってきた技術なのかは知らないが、その使い分けがうまくなっている。相手が欲している内容を推測して、同じ内容を伝えるでも色をコントロールしながら印象操作をするのが得意になった。「嘘は言っていない」レベルの物言いが非常にうまくなった。時々、騙しているんじゃないか、という気さえする。

就職活動をしていたとき、自己分析の過程で自分がどんな人間なのかわからなくなって、他人から言われた自分の印象を一時期そのまま自己分析の結果として言っていたことがあった。何度かそれを繰り返しているうちに、自分のことを「そんなもんかな」と思うようになっている自分がいた。それと同じように、本心でないことでも、印象操作でぺらぺらと話しているうちに、自分でもそう思ってしまうようになっている気がして、なんとなく怖い気もする。本当の自分はそうじゃない、と思っていたとしても、適当に人の顔色を伺いながらご機嫌取りで話しているうちに、自分の考えもいつしかそのように変わってしまっているような気がする。

耳障りのいい言葉ばかり使っているうちに、いつしか問題点にさえ気が付かないような人間になっていたとしたら。上司に対して耳障りのいい言葉ばかりを使う人間が出世しやすいのは会社が人で成り立っている以上致し方のないことなのかもしれないけれど、そういう人間が上に行った結果、経営陣が何も判断できなくなって会社が衰えていく事例はよくある。せめて、自分の頭で、自分の言葉で考えることが出来ることだけは、忘れないようにしておきたいと思うけれど。

「私の責任」という言葉を多用するけれど一向に責任を取る姿勢が態度に表れない政治家を見ながら、ふと背筋が寒くなっている。

オンラインGW

在宅慫慂下のGWが終わろうとしている。

どこにも行けないGWだった。オンラインでランチ。オンラインでお茶。オンラインで飲み会。残りの時間はテレビを見たり、本を読んだり。

人と会うとそこはかとなく虚しさ、寂しさが募るのが過去のGWの常だったが、人と会わなかったとしても、虚しさ、寂しさは募るものなのだな、と思った。画面の向こう側の同世代はみんな親になっていて、画面の向こう側には子どもたちが走り回っていた。皆、着実にそれぞれの人生を懸命に築いていた。今まで見て見ぬふりをしてきた、あるいは、見て見ぬふりをしていられたものが、画面越しに不意打ちで一気に襲い掛かってくるような気がした。一方で、年老いた人たちには、限られた数少ない長期連休の1つが終わった。子や孫と会うのを楽しみにしていたであろうけれど、何かの拍子に感染してしまえば、かなりの確率で死が近づいている年齢であることを考えると、無理は出来なかった。連休の最後、近くでは、不幸もあった。五体満足な、健康な状態であと何回長期連休を過ごすことが出来るのだろうか。身の回りの平穏も、いつまでも続くわけではない。そう思うと、貴重なGWの1つがこのような形で終わってしまうことには、やはり寂しさを感じる。

一人の時間には気を紛らわせることをして、嫌なことを忘れることが出来るけれど、不安な要素は身の回りに地雷のようにたくさん埋まっていて、ふとした拍子に踏んでしまうと一気に襲い掛かってくる。それなりに安定してそれなりに正しい生活を送っているとは思っているけれど、一寸先は闇であることをふとした拍子に思い知らされる。

気分が下がり気味なのは在宅が続いているせいだけではないと思う。

ぼんやりとした「こうじゃない」感

年明けからのぎっくり腰と肩こりはマットレスが良かったのかストレッチポールが良かったのか、とりあえずは改善している。ただ、代わりに咳が出るようになり、まもなく3週間になろうとしている。倦怠感や熱の症状はないため、ずっと家から出ない生活を続けている。口内炎が出来たり唇にできものが出来たり、相変わらず体調も不調が続いている。これも年齢のせいなのだろうか。

これまでの人生は多少の波こそあれ大きなところでは思い通りになってきたものと思っているが、最近、どうも身の回りで、思うようにいかないというか、自分の思った方向に行っていないと感じることが多い。事実だけ見ていれば別に悪いことは起こっていないのだけれど、「こんなはずじゃじゃないんだけどなぁ」と思っている。このままそのレールの先に進んでいってよいものか、少し不安になっている(2月にも同じことを書いた)。これが転換点にあるということなのか(あとから振り返ってみればここがターニングポイントだったと気が付くのか)、それとも単純によくある話なのかはわからない。あるいは今ずっと家にいるせいで一時的に気が滅入っているか、考える時間がありすぎるから余計なことを考えてしまっているだけなのかもしれない。ただ、どうも思ったのと違う方向に行ってしまっている気がする、という思いが抜けない。

だらだらと日々だけが過ぎていく。目に見えて急激に悪いことが起こっていないのは確かに良いことなのかもしれないけれど、それでも茹で蛙のごとく、だらだらと悪化していて、気が付いたら取り返しのつかないことになってしまっていた、ということにならないことを祈りたい。

一時的な気の迷い、あるいは杞憂であればいいけれど。

登るための努力、落ちないための努力

これまでの人生でしてきたことが自分を少しでも高い位置に引き上げることだとしたら、これからの人生でしていくことは自分を少しでもずり落ちずにいるためにすることなのかもしれないとここのところなんとなく考えている(いつになっても成長する気持ちを持ち続けることは大事だと思っていて、それはいったんここでは置いておいて)。

年が明けてからぎっくり腰や肩こりなど体の不調が続いていて、ここのところ、体の調子を整えるもの(マットレス・ストレッチポール・コンプレッションウェア)を立て続けに購入した。これまでが体を作るためのトレーニングだったとしたら、これからは体を維持するためのトレーニングが必要になる。

この間10年来の友人と飲んだ際にも、仕事的にも割と今までの貯金で食っている感はあって、新しい積み上げをする努力をしなくなっている(そして、残念ながら、それをしないでもそれなりに食っていけている)事実があるような気がした(冒頭のエクスキューズは置いておいて)。

たぶん、Youtubeとかインターネットの普及により新しいことに挑戦することに対するハードルは下がっているけれど、挑戦するときのワクワク感みたいなものがもうほとんど枯れてしまっているような気がしている(そもそもあったのかどうかは少し疑問だけど)。

もしそうだとしたら、これからの長い人生をどういう気持ちで過ごしていけばよいのだろう?早く目覚めた朝に、たまに、すごく、恐ろしい気持ちになる。

負けが込んでいる(その2)

うまくいかない→ストレスたまる→うまくいかないのは過去の自分のせい→自己嫌悪→余計ストレスたまる→うまくいかないことがもっと気になる→(最初に戻る)

の負のスパイラルに未だにはまっている。もしかしたらうまくいっていることもそれなりには多いのかもしれないけれど、現状うまくいかないことのほうがスポットが当たっていて、結果全体としてうまく行っていないように見える。うまくいってんのかな。

何回繰り返しているんだか。笑