上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

誰のための仕事、何のための仕事

昔から、人の意を汲むことを叩きこまれて育ってきたことに、先ほど風呂に入っていて気が付いた。

中学受験、大学受験から、一貫してそれを教わって実践している。試験問題を解くこととは、出題者の意図をくみ取り、求めているキーワードを配置して、求めている答えを返すこと。大学の歴史の記述試験なんて、まさにそれだ。知識(インプット)を、求められている形を理解して適切に回答(アウトプット)に落とし込んでいれば、高い得点がもらえる。社会人になってからやっていることも、結局すべてがそれだ。自身が持っている知識、経験(インプット)を、上司や顧客が求めている形で適切に回答(アウトプット)に落とし込むことにより、高いお金がもらえる。結局、昔からやっていることは変わらない。

それが、相手が顧客であれば結局仕事の満足度は高いのだけれど、今の自分の仕事は全くそこからは程遠い。そもそもが、社内の役員のため、上司のための仕事が9割9分。せいぜい、相手がいるとして、それは国だったり、相手先の企業であったり。日々の仕事が楽しくないはずだ。「最終的に顧客のために繋がっている」というのは、詭弁に過ぎないことに気が付いてしばらく経っている。ただ、昔からそのことを訓練されて育っているから、会社としての評価はそれなりに高い。本人の意思は全く伴っていないにもかかわらず。高い得点を得るためのゲームと割り切って出来ればいいのだろうけれど、残念ながら私には、その図太さはないようだ。

最近、水俣病に関する本を読んだ*1。作者は被害者への謝罪が被害者認定、賠償金というシステムに落とし込まれることを鋭く批判している。会社だって同じだ。顧客のほうを向いていると言いながら、結局やっていることはすべて、お金、制度、システムに落とし込まれていく。政治もそう。庶民のためと言っておきながら、結局は票に全てが落とし込まれていく。「何のために働いているのか」と言われると、サービスを利用する顧客ではなく、社会として間に挟まったお金、制度、システムと、それを運用する人の意図のために働いている。そんな仕事に対して、意欲が湧くはずがない。真摯に取り組むことが、なんだか馬鹿らしく思えてくる。コロナの対応だって、結局はそういうことではないのか。病気で苦しんでいる一人一人が相手になるべきはずなのに、一人一人を取り囲む制度のために、こんなにも我々は苦しめられている。

結局世の中に本当に価値のある仕事は、というと、給料の安い重労働。介護の仕事、保育の仕事は、なぜこんなにも安月給なのでしょうか。こんな資本主義、さっさと崩れてしまえと思っている人は結構いると思うのだけれど、次なる思想は現れないのでしょうか。