上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

システムのための労働

相変わらず仕事のモチベーションは低調。資本主義の世の中を呪うようになっている。

恐らく、手触り感のない仕事というか、「顧客のために」働いているのではなく、「社内の偉い人のために」「国家機関のために」、もっと言えば、「制度のために」「システムのために」働いているから、まったくもってやる気が起こらないのだと思う。サービス業に就職したはずなのに、私の仕事のその先には顧客はいない。最終的にはつながっている、と社内の偉い人は言うかもしれないが、そんな気は全くしない。

最近読んだこれらの本の影響も、おそらくは多大に受けている。労働が「他人のための」ものから、いつの間にか「システムのための」ものにすり替えられているからこそ、何かがおかしくなっているのだ。結局、その根源は貨幣経済にある、のだと思う。

この世界で生きていくためには、特に子育てをし、それなりのいい生活(と世の中で言われるもの)を送りたいのであれば、そういうシステムのための労働に身をやつして働くしかない。最近巷で「エッセンシャルワーカー」とか、「パーパス経営」だとかいう言葉をよく聞くようになったけれど、そもそも労働って、エッセンシャルなものではなかったのか。パーパスのない労働とは何のための労働なのか。当たり前のことが当たり前でなくなっているからこそ、これらの言葉がさも新しい概念であるかのように世の中に出てきているということなんだろう。

だがしかし、結局この貨幣経済の仕組みの中にいる以上、私はおそらく他の選択肢を取るという道を選べない。人間的な理に反していると心の中で思いながらも、今の立場を手放すことはしがたい。最近出席した結婚式で、新郎側のスピーチに「Human Beingになってください」という言葉があった。残念ながら、今の私の存在は、「Human Being」と呼べるものとは思えない。この疑問から解き放たれるには、結局のところ、ベーシックインカムの実現しかないのでしょうか。

もやもやを抱えたまま、相変わらず日々を過ごしている。今月、入籍する。それだけが、せめてもの救い。

どこか遠いところで

気が付いたら3月が終わっていた。1月に1回くらいは何か書こう、と思っていたが、ここのことを思い出さないまま3月が終わってしまった。

確かに仕事もプライベートも忙しかったが、状況は2月から変わっていない。仕事に関しては、一時期ほどではないにしても違和感を継続して引きずっている。誰のために、何のために働いているのか、全くわからない。プライベートは順調。そのことがせめてもの救い。

世の中では感染症の罹患者数がリバウンドしているものの、世間はもはや気にすることを諦めてしまったようにも見える。我慢の限界を超えたのか。我慢することによるデメリットが我慢することによるメリットを上回ることに気が付いたのか。我々の与り知らぬところで決定された仕組みに振り回された挙句、また、我々の与り知らぬところで、無抵抗に取り上げられた血税をばらまく議論が沸き起こっている。一方ウクライナでは、この時代に起こると思ってもいなかった市街戦の戦争が起こっている。画面の向こうで起こっていることにはリアリティがなく、インターネット上で流れている情報も私の生活とは遠い世界で起こっている出来事のよう。一国の独裁者のせいで、数え切れぬ人の生活が変わっている。どちらも確実に、それは私たちが生きている同じ世界で起きている。身の回りにないだけで。

遠いところで起こっている出来事に、人知れず苦しめられている。自分にとって大切なものって、なんなんでしょうね。身の回りの大切なものを大切なものと思えるようになりたいのだけれど、それすらも純粋に信じてはいけないんでしょうか。このシステムの中で、一体何が信じられるのでしょうか。

最近、全てが馬鹿らしく思えて。頭おかしいよ、みんな。そう思う私がおかしいんでしょうか?

誰のための仕事、何のための仕事

昔から、人の意を汲むことを叩きこまれて育ってきたことに、先ほど風呂に入っていて気が付いた。

中学受験、大学受験から、一貫してそれを教わって実践している。試験問題を解くこととは、出題者の意図をくみ取り、求めているキーワードを配置して、求めている答えを返すこと。大学の歴史の記述試験なんて、まさにそれだ。知識(インプット)を、求められている形を理解して適切に回答(アウトプット)に落とし込んでいれば、高い得点がもらえる。社会人になってからやっていることも、結局すべてがそれだ。自身が持っている知識、経験(インプット)を、上司や顧客が求めている形で適切に回答(アウトプット)に落とし込むことにより、高いお金がもらえる。結局、昔からやっていることは変わらない。

それが、相手が顧客であれば結局仕事の満足度は高いのだけれど、今の自分の仕事は全くそこからは程遠い。そもそもが、社内の役員のため、上司のための仕事が9割9分。せいぜい、相手がいるとして、それは国だったり、相手先の企業であったり。日々の仕事が楽しくないはずだ。「最終的に顧客のために繋がっている」というのは、詭弁に過ぎないことに気が付いてしばらく経っている。ただ、昔からそのことを訓練されて育っているから、会社としての評価はそれなりに高い。本人の意思は全く伴っていないにもかかわらず。高い得点を得るためのゲームと割り切って出来ればいいのだろうけれど、残念ながら私には、その図太さはないようだ。

最近、水俣病に関する本を読んだ*1。作者は被害者への謝罪が被害者認定、賠償金というシステムに落とし込まれることを鋭く批判している。会社だって同じだ。顧客のほうを向いていると言いながら、結局やっていることはすべて、お金、制度、システムに落とし込まれていく。政治もそう。庶民のためと言っておきながら、結局は票に全てが落とし込まれていく。「何のために働いているのか」と言われると、サービスを利用する顧客ではなく、社会として間に挟まったお金、制度、システムと、それを運用する人の意図のために働いている。そんな仕事に対して、意欲が湧くはずがない。真摯に取り組むことが、なんだか馬鹿らしく思えてくる。コロナの対応だって、結局はそういうことではないのか。病気で苦しんでいる一人一人が相手になるべきはずなのに、一人一人を取り囲む制度のために、こんなにも我々は苦しめられている。

結局世の中に本当に価値のある仕事は、というと、給料の安い重労働。介護の仕事、保育の仕事は、なぜこんなにも安月給なのでしょうか。こんな資本主義、さっさと崩れてしまえと思っている人は結構いると思うのだけれど、次なる思想は現れないのでしょうか。

仕事、プライベート

プライベートはだいぶ上向いている。それと反比例するように、仕事の方がどんどんマイナスの方向に向かっている。

入社してからもうすぐ14年になろうとしているが、過去のブログを見返してみると、仕事に関しては一貫して一定の疑問を持ちながら働いている、ように見える。そうでないときもあったはずだが、少なくとも、ここに気持ちを書きたい気分になっているときは、仕事に対して疑念を持って対峙している。そして、今も。どんどん自分のしている仕事の意味が感じられなくなっている。

一方で、プライベートでは、ようやく自分の探してきた答えは間違っていなかった、と思えるようになってきている。色々と回り道はしたし、思うようにいかないことも多かったけれど、自らのこれまでの判断は間違っていなかった、とようやく言えるような気がしている。

この2つのことを鑑みたとき、今日、ふと、仕事の面に関しても、もっと自分の思うように生きたほうがいいのではないか?と思うようになった。色々と試行錯誤をしながらも自分の気持ちに素直になろうとした結果、プライベート面ではようやく上向いた結果が得られた。ということは、仕事の方でも、自分の気持ちに素直になることが大事なのかもしれない。このまま今の仕事を続けたいのかという気持ちについては、残念ながら疑念のほうが大きくなってきていることに、気が付いてしまった。今までずっとその気持ちを殺しながら、「もっといい面もある」と思うようにしてきたのだと思うのだけれど、別のもっといい選択肢が見つからないから、そのまま続けてきてしまっただけのことなんだと思う。選択肢を見つける努力もこれまでしていなかったのだ。ただ、その選択肢はおそらくすごく狭い。しっかりと目の前のことを考えない限りにおいては、おそらく今のままの選択肢のほうが「マシ」だという気はしている。

たぶん、自分のやりたいことではないけれど、外から見た自分の性格には向いている、ということなのだと思う。だから、これまで傍から見ると順調にやってくることが出来た。でも、それを続けている限り、自分の心は押し殺し続けている。きっといつか、破綻が来る気がしている。その前に、もう少し楽な道を見つけることが出来ないのだろうか。私はまだ、この先30年以上も仕事をしながら生きなければならない。

時期が今が良いのかは、おそらく別の話。もう少し踏ん張ってみて、自分の判断を明確にしてから、職を変えるという手もあるし、たぶんそのほうがいい。今、目の前に変化が待ち構えているのであれば、2つの大きな変化を、同じタイミングでする必要はない。今はまだ、耐えることが出来る。ただ、仕事面でのマイナスが、プライベートでのプラスに影響を与えないようにだけ、気を付けたい。そして、次なる動けるタイミングのために、出来る準備を進めることが大事なのかもしれない。機を待つ。

ここに書いていることも、気分が落ちているとき特有の一時的な気の迷いなのかもしれないが、そういう気持ちを持つだけでも、少し気持ちが楽になる気がする。人の顔色を、窺いすぎなんでしょうね。自らの信じる「まとも」を、もう少し追求してもいいのかもしれない。

2022の滑り出し

海外出張に行った。久しぶりに海外の空気を吸ったが、住んでいた3年前からは同じようでいて、変わっているところもあった。コロナの影響が大きく出ているのだろうが、変わらないものなんてなくて、日々、色々なものは移ろいゆく。

帰国後、隔離期間の6日間は、かなり厳しいものだった。ちょうど仕事の巡りあわせも悪く、朝から晩まで苦手な仕事と向き合わざるを得ない状況となり、精神的にかなり辛い状態となった。不安と焦燥感が募り、集中力を欠く、いつもの悪循環。ホテル隔離は解け、自宅に帰ってきたが、未だに、それを引きずっている。適度な息抜きが出来ればいいのだろうけれど。3月には全て終わるはずなので、時間が過ぎて、目の前のことに集中しているうちにすべてが過ぎ去ってくれることを期待している。いずれにせよ向き合わないことには、先に進まないのはわかっているのだけれど。

思えば、受験だってそうだったし、なんだってそうだった。早く、その日が来て、過ぎ去ってしまえと思っていた。苦しい苦しいと思っているうちに、その日が来て、それなりの結果が出て、過去になっていった。

イマイチすべてのかみ合わせがうまくいっていないように感じるけれど、それは精神的に少し落ち気味な状態にあるからなのか、それとも実際にうまくいっていないのか。目を背けて、逃げているだけな気もする。問題を1つ1つ切り出して、地道に片づけていかなければならない。適切なサポートを求めながらが良いのだと思うが、周りの人も忙しそうで、適切なアドバイスを得られていない。遠慮しすぎなのかもしれない。

気分が落ち込んでいるので、気持ちを切り替えて、前向きに仕事を進めたい。出来なかったことより、出来たことにフォーカスしていきたい。20年前から変わっていない課題。

働く意味

未だに、働くことの意味だとか、何のために働くのだとか、そういうことを考えている。もう間もなく13年が経とうとしているのにね。未だに。

最近会社で内向きの論理でしか仕事をしていなくて、誰のための仕事であるかを見失いかけている。率直に言って、仕事が面白くない。日経ビジネスの連載を読んだりして気を紛らわせているものの、イマイチ調子は良くない。会社からの評価が悪いかというと決してそんなことはなくて、それなりの評価を受けているほうだとは思うけれど、自分の生み出しているバリューを考えた時、それが何のためになっているかが一向に見えてこないところにおそらくもやもやの原因があるのだと思う。一方で最近課題付与が多く、やることは多い。年末も有休を消化しながら、持ち帰った仕事にぽつぽつと取り組んでいる。

7年ほど前、病欠に入った先輩の埋め合わせで休日勤務も含めて月に100時間くらい超過勤務をしたことがある。土曜出勤をしていたある日、2人で会社にいたときにふと上司からかけられた「なんでそんなに働けるの?」という問いかけの意味を未だに考えている。あの時は、おそらく「他人に迷惑をかけない」ということが全てだったのだと思うけれど、結局未だにその答えは出ていない。働くことの意味が、未だに見つけられていない。でも、それはおそらく、生きることの意味と一緒で、いつまで経っても見つからないものなのかもしれない。

巨大な官僚制組織で働いているせいも確実にあるのだけれど、かと言って、代わりにどうしてもやりたい何かがあるかというとそんなわけでもない。結局は、このもやもやを一生抱えたまま、生活を紡ぎ続けるしかないのだろうか。転職すれば、何かは変わるのだろうか。そもそも、選んだ職業や職種が間違っていたのだろうか。もともと、文理選択を誤ったのだろうか。

周りの目を意識して、「どうあるべき」ということにばかりかかずらって生きているからなのだろうか。もう少し、自分のしたいことをしたいようにやればいいのだろうか。最近、会社でしている作業という作業が、上司の意向を的確に探り、それをどのように形にするかということの上にしか成り立っていないようにも思う。そこには私の意志はあるように見えて、実はなんの魂もこもっていない、ただの組織を円滑に回すための作業に過ぎないように思える。それでは確かに面白いはずはなくて、ただただ埋まっている化石を掘り出す作業を延々とこなしているだけで、新しいものはそこから1つも生まれてこない。割と、今見渡す限り目につく会社の仕事が、そのような類の仕事に見える。

そんな停滞感、閉塞感を抱えた年末。私生活では年末になってようやく明るい兆しが見えているのが、せめてもの救いか。

ほしいものリスト

緊急事態宣言が終わってから、飲み会が徐々に増加し、それとともに交際費の支出もだんだんと増えている。それとともに、購入欲がいったん落ち着いている。相変わらずゴルフ関係の支出は多かったが、それ以外ほとんど買っていない気がする‥。

前回

前回から買ったもの

  • ユーティリティ(6UT)…現在使っているXXIOの7UT(23度)が使いやすいため、もう少し飛距離を求めて同じモデルの中古の6UT(20度)を購入。ゴルフパートナーの通販で4000円程度で購入し、グリップだけ交換。2006年モデルではあるものの、十分に活躍中。
  • ルコックの長ズボン…ゴルフウェアの長ズボンが10年物だったので買い替えた。秋冬対応。
  • Nexgenのグリップ…アイアンセットのグリップがつるつるになってきていたので替えた。品不足により樹脂系となったが、それはそれでありかも。
  • 距離計測器…Amazonのタイムセールで2,000円引きになったときに買った。調子が良い。
  • アンダーアーマーのヒートギア…冬のスポーツ用に。これも暖かくて、割と良かった。

ほしいもの

シビックハッチバック、財布、ワイヤレスイヤホンについてはほしいものリストから外すこととする。ずっと記載を続けてきたが、もう買わないだろう‥。

  • アプローチウェッジ…現在使っているPhyz Forged(SW)のAWが欲しいのだが、これも古くてなかなか中古で見つからない。半分諦め気味。新しいSWとAWのセット買っちゃおうかな‥。

リハビリテーション、バランス

徐々に、人と会うことや、出歩くことを再開している。

外で食べるご飯や、人と飲むお酒がどれだけ美味しいかということを思いだす作業をしている。と同時に、こうした人の触れ合いがどれだけ大事だったかということも、思い出している。久々に飲むお酒に胃腸がびっくりしたのか、多少体調を崩したのはご愛敬。

一方、外食はお金がかかるということも思い出しており、それと共にゴルフに行く回数を減らしている。10月に3回行ったところ、スコアが伸び悩んだ(どころか悪くなった)ことからいったん小休止を挟むことにした。10年前の話だけれど、ニュートラルに戻る作業。悪い時というのは、たいてい少しずつ何かが悪くなっていって、直そうとするうちにさらにどこかがおかしくなり、修正が効かなくなってしまっているもの。結果を出し続けなければすぐに他の人にとってかわられるプロ野球選手とは異なり、ゴルフにおける私には休むだけの余裕がある。おかしいときはいったん休んでみる。なお、麻雀は1回休んでみたところ、爆発的に良い日が来た模様。これは単に運の問題だと思うけれど。

焦っても良いことがない、というのは分かっているけれど。少しやめてみて、周りを見渡すことが出来るだけの余裕を持ちたいもの。バランスを整える。今年は感染症のせいもあるのかもしれないけれど、仕事も、私生活も、年初からずっと焦りだけが先行する状態が続いていた。ようやく最近、一休止出来る状態にたどり着いたところと感じている。

今回のトンネルは、長かった。一時的なものにとどまらず、このまま上向いてくれることを信じたい。

生活変容

コロナ禍で、暮らしそのものにも変容が出ている。

英会話のオンラインレッスンをして、たまにランニングに行くか、ゴルフの練習に行くか、月に1回くらいラウンドに行くような日々。たまに友人とオンラインでマージャン。休日土日共に精力的に出かけるような習慣は、なくなってしまった。平日も然り。前は仕事終わりに飲みに行ったり、少し早めに仕事を切り上げてどこかに行ったり、ということをしていたけれど、すっかりそれもなくなってしまった。会社と家を往復する日々。たまに、家からテレワーク。

10月から、行動制限が緩和された。まだ終わる時間は早いが、飲酒を伴う飲食も解禁されたし、土日も飲食店は営業している。観客を入れたイベントも再開した。

体がついていかない。一度消えてしまった休日出歩くような習慣はなかなか戻ってこないし、会社帰りにどこかに行くような文化も消えてなくなった。結局、コロナ前と同じような生活をしている。これは徐々に戻っていくものなのだろうか?果たして、そのまま「新しい生活」に移行してしまうのだろうか。「おうち時間」に慣れきって弛緩した体と頭は、その楽さにそのまま流されて行ってしまうのだろうか。

タイミング的に、年齢的な移行期と重なっていることもあると思うけれど。だいぶ、1日出歩くと疲れがたまるようにもなった。周りの人は結婚して子供もいて、遊びに行くような人も少なくなってきた。ただ、このままこれが普通になっていくとしたら、それは少し寂しい。

運と縁とタイミング

世界的な疫病の流行のせいで、相変わらず外出が制限されている日々が続いている。

人生は色々な運と縁とタイミングから成り立っているとすれば、これもきっとその一環なんだろう。社会人生活12年間を、別の会社に所属してずっと東京で暮らしていれば、それはそれで今は全く別の生活になっていたのだろうし、あるいは別の会社に就職して東京とは違う別の場所で生活していたとしてもそれはそれで別の生活になったんだろう。たまたま運と縁とタイミングでアメリカに3年間行くことが出来たけれど、そのタイミングがずれていたら疫病の大流行に海外で直面する羽目になっていたのだろうし、ただそれはそれで大変だっただろうけれど、マイナスなことばかりではなくて人生にプラスに働く可能性もあったのかもしれない。たまたま会社の方針で5年くらい新潟にいたけれど(今は3年に短縮されている)、そのおかげで失うものも多々あったのだろうけれどきっと得るものもあったのだ。結局は我々にできることは、所与の環境下で目の前にあること1つ1つを、自分に出来る最善の方法で処理するしかないのであって、それが良きに働くか悪きに働くかは過ぎ去ってみないとわからないことなのだ。人間万事塞翁が馬

残念ながら、相変わらず、自分としては納得しがたいところを抱えた日々と、納得しがたいところを抱えた人生を生きているけれど、かと言って上に述べたようなことをぼんやりと考えていると、これが悪いかというと、必ずしもそうも言えないんじゃないか、と思ってしまう。現在私の身の回りを取り巻く疫病を含め、思うようにいかないことは多々あってそれは神が与え賜ふ試練なのかもしれんなぁと思うことは出来るけれど、試練を乗り越えた先に果たして明るい未来が待っているかというと、全然そんな明るい未来なんて待っていないのかもしれない。その逆で、試練を乗り越えられなかったとしても、別の明るい未来が待っているかもしれない。なんてひどい世の中でしょう。

繰り返すけれど、結局自分に出来ることは、所与の環境下で目の前にあること1つ1つを、自分に出来る最善の方法で処理するしかないのであって、結果として出てきたものについては、後になってからとやかく言うことは出来るけど変えることは出来ないので、後になってから後悔しないように「ベストを尽くしたのだ」と言えるようにすることなんだと思う。口ではこう言っているけれど、これまでベストを尽くしてきたかというと実はそうではなくて、結局、運と縁とタイミングに任せてきた結果、今まではそれでも何とかなってきたけれど、何とかならなかった(足らなかった)部分が今さらのように露出しているだけなんだろう。自業自得。それはそれでいつか将来、「仕方がないなあ」って思い返せるといいけれど(この世の中には終わりよければ全てよし、という言葉がある)、そこまで良い運と縁とタイミングのもとに今も生きているのでしょうか?この疫病下では、あまりそうも思えなくなってきている‥。

時間は不可逆。今できるベストを尽くしましょう。後悔しないように。

無観客五輪

オリンピックが終わった。

本来なら外国人で溢れていたはずの街中には、いつも通りの日常があるだけ。バブル方式に閉じ込められた画面の向こう側で、画面を通してお祭りが終わってしまった。

きっと、街中が外国人で溢れていたら、内向きな日本人にとっては凄く色々な経験が出来るチャンスだったはずで、それは街中にいる私たちにも全員に平等に訪れていたはずだったのだ。駅で道を聞かれる機会もあったかもしれないし、コンビニのレジでAmazingと言われる機会もあったかもしれない。ホストタウンに選ばれていた街には人の交流と絆が生まれていただろうし、一生に一度の日本に訪れるチャンスをオリンピックに合わせて選んでくれる観光客はきっと多かったのだろうし、その過程で日本人の市井を多くの人が知ってくれたはずなのだ。

それが、感染症による非接触の推奨により、一気に奪われてしまった。

商業的な成功の有無とかそういうのは置いておいて、これはかなりの痛手だったはずだ。結果、残ったのは、変われない古い日本人の体質と、変われない古い日本の組織と、変われない古い日本の雰囲気。もしかしたら、最後の変わるチャンスだったのかもしれないのに、その機会が一気になくなってしまった。感染症が襲い、オリンピックが延期になり、無観客でようやく開催されるまでの間に、嫌というほど「変われない古い日本」を見てきた。

もともと、これはオリンピックに限った話ではなくて、身の回りのあらゆるところを覆いつくした病理だ。それが、感染症と、オリンピックにまつわる一連の騒動の中で、一気に露わになった。身の回りにも同種の話は腐るほどあるし、そういった閉塞感を日々感じている。本当は、オリンピックと、それに伴って日本を訪れてくれた多くの外国の人たちがそういうものを気づかせてくれて、そして変わるためのアイデアをくれるはずだったのに、その機会は奪われてしまった。そのことが、たまらなく悲しい。

果たしてこの先に、内向きなこの国の、内向きのこの空気が変わるだけのこれだけ大きなチャンスが訪れる機会はあるのでしょうか。57年前、東京は大きく変わった。13年前、北京も大きく変わった。これだけの変化をもたらすエネルギーは、外から持ち込まれない限り、果たして日本の中から生まれてくるのでしょうか。

現実逃避

未だに、思い通りにならない現実から逃げ出したくなることがある。

思い通りにならない状況を、自責にするか他責にするかで気分への影響は随分変わる。残念ながら私は自責にする傾向が強いため、未だに「なんでこんなことをしているんだろう」と思いながら気分が落ちることがある。前よりはだいぶマシになっているけれど、未だに、たまに足を取られそうになる。過去は変えられないのだから、過去に囚われて気分を落としてもどうしようもないのだけれど、今の自分があるのは過去の自分の帰結によるものだから、必然的にそこに目が行ってしまう。

現実にはリセットボタンはないので、過去は見て見ぬふりをしながら、落ちた気分はごまかしながら、足を前に進めていくことが今できること。せめて、今私の目の前にある現在が将来の自分の足を引っ張る過去にならないよう、現在出来ることを懸命にやっていくことを心掛けたい。

ほしいものリスト

コロナ禍で昨年はほとんど服を買っていなかったことに絶望した。緊急事態宣言下ではあるが、夏服を断捨離するとともに、少しずつ買い始めている。

前回

前回から買ったもの

半年が経っている‥。ゴルフ用品を相変わらず少しずつ買い足している。

  • ドライバー(1W)…5Wと同じキャロウェイROGUEのドライバーを上野の二木ゴルフで購入。ところが、確かに当たった時の飛距離は伸びるが、安定感がない。今まで使ってきたドライバーがいかに自分に合っていたかということを再確認する結果となった。結局使っていない。ゴルフクラブはたぶん、もう買わなくて済みそう。
  • ルコックの半袖シャツ…半袖のゴルフウェアが10年物だったので買い替えた。気分で使い分ける。
  • Footjoyのゴルフシューズ…前のが10年選手で割れてきた&スパイクが欠けてきていたので、今はやりのBoaシューズに買い替えた。スパイクレスシューズなので手入れが楽。特に、困ったことはない。今まで何だったんだろうか。
  • Colemanの自撮り棒三脚…三脚にもなる自撮り棒。中国製のものでもよかったけど、しっかりしているものを買ってみた。ゴルフのスイングチェックに大活躍している。かなりよかった。
  • ウレタンボールとゴルフ練習用マット…部屋の中でアプローチ練をする用に。コロナ禍で飽きた時にやっているけれど、結局ラウンド中に使う技術とは違う気がするな…。
  • DUNLOPのピンポンパット…同じくパターの練習用に。これも真っすぐ打ち出す感覚は身につくけれど、特にこれのおかげでスコアが上がった感じはないな…。
  • エアピーク プロ ナノフロントモデル…通気性のよい帽子。マイルが余ったから、と思って買ったけど、まさかのクレジットから引き落としになっていた。それなりのお値段がしたけれど、たぶんマイルでなかったら買っていなかったと思う‥。真夏のゴルフで使いたい。
  • 氷のう…夏の熱中症予防に。特にゴルフ時。MIKASAのを買ったら、しっかりしていてとてもよかった。全く水滴がつかない。
  • Paul Stuartのクラッチバッグ…これもマイルが余ったから、と思って買ったらまさかのクレジット引き落とし。年に1回使うか使わないかのものに3万円も払ってしまった。モノには後悔していないし、買ったからには使おうと思うが、如何せんコロナ禍も相まってフォーマルな外出の場が全くない。
  • GAPのコットンTシャツ…安くていい色で、品質が良かった。この夏活躍してくれそう。
  • グンゼのインナーT(YGシリーズ)…ポロシャツの下に着る用に買った。今までTシャツで代用していたけれど、薄くて汗も吸ってくれて良さそう。
  • ラコステのポロシャツ…1軍級のエースポロシャツになってもらう予定。ラコステのスリムポロが体系にぴったりでとても良い。白シャツなので大切に使わないと‥。
  • 夏用のスーツ2着…ようやく買えた。大丸の紳士服フェアで買ったら結構イメージ通りのものが安く買えた。やはりスーツを買うのは百貨店のセールに限る‥。
  • GUのハーフチノ…ハーフパンツ初挑戦。まずはGUの安いのから‥と思って買ってみたけれど、全然これでいいんじゃないか‥。
  • 革のカードケース…ずっっっと懸念になっていた革のカードケースをようやく買った。クレジットを入れる用ためだけのもの。ヌメ革のものをこれからしっかりと育てていく。
  • アウトドアチェア…ヘリノックスのパチもの。キャンプ用に買った。小さくて持ち運びがしやすいが、結構しっかりしている。よく出来ているね。
  • はにわ型指サックと捺印マット…ライオン事務器の今頃アナログな指サックとコクヨの捺印マット。未だにペーパーワークの多い会社用。必要性に駆られて。いい加減さっさとなくなってほしい。

ほしいもの

ほしいものリストから、買ったものリストにだんだん趣旨が変わっている気がする。刹那的な衝動買いにシフトしてきている。

  • 距離計測器…110を切ったら購入してよい、としてニンジンをぶら下げていたら、先日めでたく95をたたき出し購入権を得た。15,000円くらいの安いのでいいんだけど。Amazonのタイムセールで2,000円引きになるので、値下がりしたら買う。
  • レインコート…これも全然使わないのだが、こないだ雨の日に野球見に行くときになくて困った。1つあれば便利なのだろうが‥
  • 財布…前回から引き続きリストに入っているが、まだ買ってない。
  • ワイヤレスイヤホン…だいぶ購入意欲は下がってきた。リストに入れたまま、結局買わないかもしれない。
  • シビックハッチバック…これも購入意欲が下がってきた。新型はたぶん買わない。最近カローラスポーツのほうが良さそうに見えてきて困っている。あるいはいっそのことカムリとか。。。

責任

プライベートもビジネスも、この歳になっても未だに責任を恐れているのだという事実に気がつき、焦りを覚えている。

責任の所在が明確でないことは、日本的大企業の1つの悪い点だと思っている。チームとして、上司が言うがままになんとなく目の前のタスクをこなしているだけで、それなりに日々の問題は解決される(もしくは先送りされる)。何か自分で対処できないことがあれば、他の部署にたらいまわし。そうこうしている間に自分は異動になり、自分の為したことの結果がわからないまま、別のタスクに取り組んでいく。それの繰り返し。

そんなことを十余年繰り返してきた。他企業であれば、数十億円の案件に平気で取り組み、自分の1つのミスが会社やともすれば社会に大きな損害を与える立場で働いているのであろう立場にいる。しかし、今の自分はと言えば、大きな責任の一端は担っているのだろうけれど、それは会社の仕組みにより巧妙に連帯され、自分1人の責任にはならない仕組みになっている。多かれ少なかれ、誰かの肩にもうまく分散されて乗っかっている。

プライベートでも結局面倒くさいこと、責任が発生することからは逃げ続けてきたというのはこれまでにも書いているけれど、そんなことを繰り返しているうちに、未だに責任を負うことに対して恐れを抱いている、ということに最近気が付いた。

何年前かの年始の抱負に「覚悟と責任」と書いたのを覚えているけれど、そのときからたぶん、ぼんやりとその欠陥に気が付いてはいた。けれども、当時から、メンタリティも状況も何も変わっていないように思える。経験が増え、立場が変われば何かが変わるのかと思ったけど、色々なことは少しずつ変わっているにもかかわらず、結局この点については何一つ変わっていないように思える。結局それは、この会社で働き続けている以上、もしかしたら一生抱え続ける悩みなのではないか?とさえ思える。

環境を変えるのが正しい選択なのか、それとも所与の環境の中でそれでも自分が変わるように働きかけられるものなのか。逃れられる環境がある以上、きっと弱い私は逃げ続けることになるのだろう。それを許容してくれる優しい世界にいる、と言うことも出来るかもしれないけれど、果たして、その先に行きつく先はどこになるんだろう?

「正答」

なんだか思う通りに物事が進まないときって、昔は人と会って話したり、酒を飲んで発散していた気がするけれど、時節柄、それができない状態が続いている。けれども、歳を重ねてきたせいで、そんな状態であっても「そんなものかぁ」で温度が低く済ませられるようになってしまっている。休日はなんとなくぼんやりした気持ちを抱えながら、ゴルフの打ちっぱなしに行ったり、ランニングをしたりしながら過ごしている。先に進むことはなく、どちらかというと、落ちないようにするための毎日。

資格でも取れば気持ちが変わるのかなぁ、と思って、資格の勉強も始めてみた。ただ、結局自己満足でしかなくて、その先の何かにつながるわけではないと思うと、これもなんとなく徒労感が募っている。たぶん、それでも、なんとなく資格は取れてしまうのだろうけれど。

因果関係が明確に見えていないのがここのところの行き詰まりの原因なのだろうな、となんとなく思っている。何かをしたところで、その先に確かな変化が見えない。すべてが正答のある数学の問題だったらいいけれど、最近の身の回りの事柄は、答えがないことばかりだ。Valueが生み出される絵姿がそこにはない。私生活もそうだし、会社もそうだし、このコロナの行く末だってそうだ。

学生時代はそれでも、次のステージで待っている目標に向かって、懸命に努力を重ねていた。けれども、今、努力をしたところでその先に待っているものは何なのだろうか。そんな毎日を「そんなものかぁ」で済ませつつあるけれど、それでも済ませちゃいけないものってやっぱりあるよな、と、日曜の夜に一人ぼんやり考えている。

早く寝よ。