上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

今年の最後に。

僕は言葉を誰に伝えたいのだろう?言葉によって何を伝えたいのだろう?

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何かを主張する言葉というものは、何らかの重みを持つものである。それは、自分に対して重みを与えるものでもあるし、誰かに重みを与えてしまうものでもある。言葉にすることによって、自分の中で何かが固まることはよくあるし、言葉にして話すことによって、相手に色々なことが伝わる。

そうした世界の中で、僕は一体、誰のため、何のために言葉を発しているのだろう?

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自分一人にとっての「重み」というのは、自分の中で完結するだけである。日記ないし自省、独り言なんていうものは、自分にとってだけの重みを持つものであろう。誰かに対して発した言葉ではなく、自分に対して語り、自分の中だけで完結するものである。それが公開されない限り。

しかしながら、他者との関係の間において言葉が発せられた場合には、自分の手を離れた瞬間に他人の解釈に委ねられ、他人の中に入り込むことになる。言葉に限らず、自分のイデオロギーが反映された行為は全てがそれに当たる。その中でも、言葉は自分のイデオロギー言語化されて相手に伝わるという性質のものであるため、わかりやすく、よりメッセージ性は強い。

「人の心の中に棲め」って言ったのは杉村太郎氏(絶対内定書いてる人)だ。この言葉は、他人との関係性において成り立つ考え方であるだろう。言葉なり行為なり、なんらかのアクションを起こし、それが他人に与える影響の大きい人間になれ、ということを示しているのだろう(少なくとも僕は、そう解釈した)。言葉によってメッセージを伝える行為も、その中の1つである。「アツイコトバ」っていう本の中で、こう書いているくらいだし。

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その言葉の持つ重みには、プラスの重みもあれば、マイナスの重みもある。自分にとっても、他人にとっても。

それはプラスのインパクトを与えることもあるけれど、それと同じ行為が、マイナスのインパクトを与えることもある。おそらく杉村氏はポジティブにこの言葉を捉えてプラスのインパクトに着目しているのだろうけれど、ネガティブな側面に着目すると、その見方は変わる。

例えば、愚痴とか悪口をよく言う人、というのは、一般的に悪く捉えられることが多い。あまり、こういう性格は好まれない。けれども、「愚痴とか悪口をよく言う人」という認識がされている以上、それは相手に対して何らかのインパクトを与えている、ということなのだ。ネガティブに、人の中に棲み込んでいることになる。

一方で、愚痴を言うこと、悪口を言うことによって、自分の中には何かスッキリした気持ちが生まれる。それはおそらく、自分の頭の中にあるもやもやとしていた問題点が整理されること、そして他者から自分への共感が得られることによって、何らかのプラスが自分の中に得られるということだろう。自分にとっては、これはプラスの行為なのである。この効果だけに関して言うならば。けれども、これらの行為は、自分の中のマイナスを他者に押し付けることになる。相手にそれらのマイナスを引き受けてもらった分、自分の中のマイナスは軽くなるかもしれないけれど、その分のマイナスを相手が背負うことになるのだ。その結果、自分に対して不快感がもたれてしまった場合には、これは自分にとってもマイナスになり得る。

それを避けるためには、その言葉を発しなければよいだけの話である(もっとも、そう決心しても、なかなかそうもいかなかったりするのが人間なのだと思うけれど)。愚痴とか悪口とかっていう行為については、社会的通念に照らして、相手にとってマイナスであるということが自分自身にとってわかりやすい事柄であるため、それを生み出さないようにするためにすることは簡単である。黙ってしまえば良いだけの話である。こうした、社会的通念が比較的見えやすい事柄に関しては、努力目標が明確に見える以上、いかにしてそれをやらないようにするか、ということだけを考えればよい。

けれども、自分が相手にとってプラスになる、もしくは、状況を改善するためにはこのことが絶対に必要である、と思って発した言葉によっても、相手に不快感を与えてしまったり、嫌悪感を与えてしまったりすることも有り得る。強いイデオロギーの押し付けは、相手に大きな重みを与える行為となる。その波長が合致している人にとっては(例えば宗教指導者)それは凄いプラスの力を及ぼすのだろうけれど、波長が合致していない人にとっては、それを押し付けられた場合、強い不快をもたらすことがある。理想論があったとしても、その理想論に合わない人にとっては、ただの不快でしかない。また、その理想を実践できる状況になかった場合には、それが不快の原因につながる場合もある。

こうしたプラスマイナス、というのは、万人に対して適用しうるような、絶対的な値ではない。それが他者によって解釈されるものである以上、それは絶対的なものにはなり得ないのだ。「アツい人」を好む人がいる一方で、「アツい人」がしばしば敬遠されることがあるのは、こういうことであろう。このような強いイデオロギー性には、好みがある。

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こうして、言葉を発するときに、ふと、自分の中に、「恐れ」が発生することがよくある。この「恐れ」という意識は、おそらくこうしたプラスマイナスの判断における、ネガティブな側面の作用によって発生する。

自分が発した言葉、自分が行った行為によって、相手に負担をかけてしまう可能性。申し訳なさ。相手に嫌われる可能性。相手に何らかのマイナスを生み出す可能性。

それを恐れる気持ち。

人に向かって何か言葉を発する、主張するということはこのような怖さを伴うものなのである。言葉に限らず、他者との関係において自分がする行為は全て、一挙手一投足にこれらの価値判断が絡み付いているのだ。プラスもマイナスも含めて。

それを恐れていては、何も先へと進めない。嫌われることを恐れていては、自分から行動することは出来なくなってしまう。それは、わかってはいる。けれども、そういうことを考え出してしまうと、足が竦んでしまってそこから先に進めなくなってしまうのだ。恐れは、一度それに気がついてしまうと、じわじわと足元から行動を束縛して、気づいたらがんじがらめに体を縛り上げている。

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そう言いながらも、僕は結構な量の言葉なり、主張なり、行為なりを他者との関係性において、周囲に撒き散らしている。それは事実だ。人から見たら、ある程度のイデオロギーを持ち、それを周りに対して発散しているように見えるだろう。相対的に見れば。僕自身が、そうした強いイデオロギーをどこかに抱えているのは認めざるを得ないと言える。

そして、こうしたイデオロギーを誰かに伝えた際に生み出すマイナスの面を恐れるのならば、そのイデオロギーは、単に自分の中だけに留めておけば良い。日記の中だけで完結させておけば良い話である。それは誰にも読まれないものなのだから、誰にもマイナスを生み出すことはない。

けれども、こうして僕が誰かに対して言葉なり、行為なりでそうしたイデオロギーを発してしまうということは、そうするだけの理由があるということだ。

しばしば、飲み会の後で、喋りすぎたことを猛烈に後悔することがある。人に対してこうした自分のイデオロギーを主張してしまったことを後悔することは、僕には本当によくある話なのだ。けれども、僕はこれを飽きずに繰り返している。こうして、今も。

結局、僕はこれによって何がしたいのだろう?誰かにメッセージを伝えたいのか?それとも、単なる自己顕示欲?

それは、自分を理解して欲しい、という欲求なのではないだろうか?

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話は少し戻るけれど、言葉の持つプラスとマイナスの重みを踏まえた上で取れる行動は2つある。

1つには、こうしたネガティブな側面は割り切ってしまい、意図的に切り捨てて、ポジティブな側面だけを考えて行動することだ。「怖さ」に対しては、無視を決め込む。自分を信じる、ということ。それによって誰かに痛みを与えてしまうかもしれないけれど、それは仕方のないことであり、その分誰かにプラスが与えられれば良い。個人的には、えがちゃんとかまさにこんな感じがする。杉村氏もそうかもしれない。この人たちは極端な例かもしれないけれど、こういう人たちの考え方は納得できるし、それと僕自身の考え方の一致不一致は置いておいて、それを体現できる人というのは凄いと思う。悪く言えば、自分に合うやつはついてくればいい、自分に合わないやつのことは知らない、という言い方をすることが出来るかもしれないけれど、得てして、こういう風に強烈な個性を持っている人というのは、賛否両論がはっきりと表れるものなのだと思う(そしてそれらは、良い悪いの問題ではなく、合う合わないの問題である)。

もう1つは、そこで何もしない、ということだ。ゼロからは何も生まれ得ない。その行為をすることによってプラスが生まれるかもしれないけれど、マイナスが生まれる可能性もある。だったらやらないほうが良いじゃん、という考え方。事なかれ主義とかは、多分この典型だろう。事なかれ主義の場合のマイナスというのは、おそらく自分のマイナスを考えてであることが多い気がする。自分が面倒なことをやらなきゃならないから、とか、自分が目立つから嫌だ、とか。事なかれ主義の人の場合には、自分のマイナス面を考えることが多いと思うけれど、相手にマイナスを生み出したくないから、何もしない、という行為もあるのだと思う。

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「現代人」の特性として、「自分が傷つきたくないから相手に深く立ち入るのを避ける」ということが良く言われるけれど、それは後者的な考え方が割と主流になってきている、ということなのだろう。

事なかれ主義の人の場合には、自分のマイナス面を考えることが多いと思うけれど、相手を傷つけなくないからこそ、相手に深く立ち入るのを避けるというのもあるのだと思う。コミュニケーションが相互行為である以上、自分が相手のイデオロギーを引き受けるだけのみならず、自分が相手にイデオロギーを押し付けることもあるのだ。その結果、相手に対してマイナスを与えてしまっては、相手に申し訳ないし、自分としてもなんとも言えない気分になる。自分がイデオロギーを主張するということには、プラスもマイナスも両方を含み持つ可能性がある。そういうことを色々考えてしまうと、足がすくんでしまって結局何も出来なくなる。こうやって、マイナスを引き受けないようにするために(もしくは与えないようにするために)、結局プラスを犠牲にしながらゼロ行為を続ける人は、いわゆる「現代人」と言われるような人たちの中には、たくさんいるはずだ。

マザーテレサ曰く、「愛の反対は憎しみではなく、無関心。」ということである。強い愛は、強い憎しみに変わりうる。けれども、無関心な場合には、そもそも愛も憎しみも発生しない。この構図で言うならば、愛の反対が無関心である反面、憎しみの反対も無関心であると言えよう。愛や憎しみが、プラスやマイナスの価値観を含み持つものであるのに対し、無関心は、ゼロ行為なのだ。マイナスは生み出さないけれど、プラスも生み出さない。

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こうした人の痛みを双方が引き受けない関係ばかりが続いていると、人間関係は希薄になってしまう。僕は、そのような関係には疑問を感じたいし、このような関係は越えたいと思う。プラスもマイナスもあることを認識した上で、それすらも越えられるような関係を築きたい。それが、僕の中の理想論だ。けれども、自分の中にある「恐れ」に反応している限り、それを完全に成し遂げることは不可能に近い。そうした相手を傷つける可能性、自分が傷つけられる可能性に対する恐れというものが、大きなものとしてあるからだ。「相手に嫌われること」を恐れていては、思うようなことは出来ない。

理想論に近づくためには、こうした恐れとの戦いに打ち克ち、それを乗り越えた信頼関係を相手と築かなければならない。こうしたネガティブな側面も見据えて、ポジティブな側面も見据えて、両方を包摂して全てを受け入れてやることによって、本当の信頼関係が生まれるものだと思っている。

本来ならば、それが双方が出来ている関係と言うのが、理想的な関係であるはずなのだ。けれども、それを担保することは不可能である。他者の考えていることなんて、根本的には僕は知りえない。それに、人間には、感情がある。この絶対性が担保されているものだったら、この世の中に浮気が原因で別れるカップルは存在しない。

その絶対性が担保出来ない以上、僕の中にある「怖さ」は、いつまでも拭い去ることは出来ない。限りなく減らすことは可能かもしれないけれど、ゼロにはなり得ないのだ。

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もし無償の愛に近いものが存在し、それを体現することが可能なのであれば、この理想はいとも簡単に達成される。無償の愛というのは、自分にとってのマイナスは全く気にならず、文字通りに相手にとってプラスのことばかりを与え続けることであると言える。これがもし可能ならば、別に自分の行為が他者に与える影響に対して「恐れ」を感じる必要はない。なにせ、マイナスは生まれないのだから。だから、遠慮なくプラスの行為ばかりをし続ければよい。

けれども、それは本当に可能なのだろうか。波長の合う合わないがある以上、イデア的な愛は存在しないように思える。親切がお節介に化け得る可能性は十二分に転がっているのだ。解釈行為である以上。

それに、どうも、人間と言うのは、マイナスを自ら生み出してしまうように出来ているらしい。何かしら、不満を覚えたり、何かしら、人に対してマイナスの感情を持つことが多い気がするのだ。

強いイデオロギーの先には、プラスが待っている場合もあるけれど、マイナスの押し付け合いが転がっている場合が多いような気もする。年末であるというのに、イスラエルでは緊張が続いている。負の連鎖は、どこまで行っても負の連鎖にしかならない。どこかでそれは断ち切らなければならないのだ。どこかで断ち切ることが出来ればいいのだけれど、この世界は未だに憎しみで満ちている。身近なところでも、些細なところでも。

マイナスを断ち切る場所として、自分がマイナスの終着駅みたいな場所になれればいいと思ったこともあった。自分の側にマイナスを引き受けることによって、相手にプラスを与えることができるのならば良い。自分自身がマイナスをマイナスと捉えなくなったところに、おそらく無償の愛が成立するのだろう(昔僕はそれを超越と名づけた)。けれど、人間の卑しさを考えた場合に、本当の意味で強い人間でない限り、それは不可能な気がする。マイナスと解釈しない、というのは相当難しい行為であるように思える。それこそ、本当に強いか、本当に純粋な心を持っている者でないとその境地に達することは不可能であろう。僕には、とてもそんなことが出来る自信はない。

そしてそれが僕にとって不可能なのと同様に、他人にとってもそれは不可能な話なのだ。

結局こうした負の側面の存在を否定することが出来ないから、その対極にあるゼロ行為を選択する人の気持ちも、理解できる。

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そうした中で、Web上の場に延々と発し続ける言葉というのは、こうした葛藤を軽減した場所として、心地よく感じられているからかもしれない。少なくとも、僕自身に関しては。

Web上にこうして一方的に述べ立てる文章のような、相手の顔が見えない主張は、リアクションを義務的に付与するものではないので、こうした負担が自分からは軽減しているように見える。誰かに主張を押し付けているわけではない。画面の向こう側の人には、嫌なら見ない、という選択肢がありえる点で、押し付けにはならないのだ。その点、こうした「相手にマイナスをもたらしてしまうかもしれない申し訳なさ」とは、中和される。もしかしたら、こうすることによって、誰かにマイナスが引き受けられているかもしれないし、誰かに嫌われているかもしれないけれど、その相手と面と向かって正対しているわけではないので、僕からはその嫌っている相手が見えないのだ。だから、見てみぬフリができる。ある意味、自己完結している日記に近いものはある。

だから、僕はおそらくこういう場においてこういう文章を書き続けてきたのだろう。無責任に。ある程度、こういう「恐れ」みたいなものが緩和された場で(それでも、もちろんこれを読む人にとって何らかの影響を与えるのは事実なのだから、「恐れ」がないと言えば嘘になるし、結局無視なんて到底出来ないのだけれど)。

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けれども、5で述べたように、自分のことを理解して欲しい、という欲求が僕の言葉の裏に潜んでいるのであれば、それをこういう場で行っているというのは、一種の逃げである。

相手の顔が見えない以上は、「誰かに対して」プラスをもたらすことは出来るかもしれないけれど、それは、「特定の誰か」との関係性の中において成り立つものではない。結局は、全てが自分の中でのプラスマイナス、自分に対してのプラスマイナスだけに留まってしまう。

自分を理解して欲しい。そういう欲求のもとで、おそらく僕はこうして文章を書いている。けれども、それは、特定の誰かに理解して欲しくてやっているわけではない。なぜならば、そこには、自分のイデオロギーが受け入れられない可能性、という「怖さ」があるからだ。マイナスを生み出す可能性を恐れていては、誰かに対して強いイデオロギーを主張することは出来ないのだ。

僕には、自分が強いイデオロギーを持っていて、そしてそれが他人のそれとあまり似通ったものではないという認識がある。多数派ではない。それが、マイナスの影響を与えてしまう「恐れ」を強く僕に抱かせているのだ。

だから、こうして、相手の顔が見えない場でその主張を行うことによって、巧みに現実から逃避し、自分を理解してほしいという欲求を代替させている。それは、架空の誰か、画面の向こう側にいる、誰とも知れない誰かに対して、理解して欲しい風を装って書きなぐることによってあたかも自分を理解して欲しいという欲求を満たしているように見せかける、自分の中だけで閉じている行為にすぎない。

このようにして成り立っている以上、どうにも、僕の言葉は、こうした単なる自己完結的な言葉に留まっている気がする。それは、誰かのために何かをするというような類のものではない。特定の誰かに対してプラスやマイナスを生み出していることが認識されない以上、そこでやっていることはそうした目的は持ちえず、単なる自己完結行為に過ぎないのだ。

押し付けられない言葉は、行く先を失って中空に浮遊して、そのまま分解してしまうようにも思える。一方的に言葉を投げっぱなすだけで、そこには責任のカケラも感じられないのだ。

それは、僕が希求しているような、本質的な誰かとのつながりなのだろうか。

いや、違う。

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僕の言葉の行く先は、一体どこにあるべきなのだろうか。

「人の心の中に棲め」。それは、発して発しっぱなしになる言葉だけではなく、特定の誰かの中にしっかりと受け止められる言葉を吐けということなのだろうか。自分のイデオロギーを、しっかりと相手に受け止めてもらえるような人間になれ、ということなのだろうか。そして、自分に対しては、他人のイデオロギーを、しっかりと受け止められるだけの人間になれということなのだろうか。プラスもマイナスも含めて。

理想論は、そこにあるのだろうか。ゼロ行為でなく、プラスとマイナスがある関係性を希求している以上。

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そんなことを考えながら今年が終わろうとしています。1年の終わりにまとめてみようとしたけれど、結局まとまらない。もともと、まとまるようなものではない。相手がでかすぎる。

何か今年1年、ずっとこんなことを考えながら生きてきたような気がします。そして、きっとこれからも。おそらく、これまでもずっと。

1年の終わりに、こういうことを書いて終わりたいと思います。明日はもう何も考えない(笑)。

ではまた明日。良い1年でした。