承認欲求
「承認を欲求すること」について延々と長い文を書いてみたけれど、実はその概念は既に世の中にあるということを知った。やっぱり(笑)。
既に本も書かれているらしい…。
- 作者: 太田肇
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2007/10/25
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 93回
- この商品を含むブログ (15件) を見る
お金より名誉のモチベーション論 <承認欲求>を刺激して人を動かす
- 作者: 太田肇
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2007/01/04
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 40回
- この商品を含むブログ (21件) を見る
書こうとしていたこと
まぁ、以下、何も知らない状態で実感から適当にバーっと書いてみたことをそのまま載せちゃいます。
「受け入れてもらえる」感覚
私たちはどこかしらで、他人に「承認」してもらうことを求めているのではないか。
承認っていう言葉を使うのが適切かどうかはわからないけれど。人に認めてもらう、受け入れてもらえる、という経験。
これによって自分の中に自信が生まれるし、そこにいても良いのだ、という安心感が生まれる。今の世の中、これを希求している人は実はとても多いんじゃないか、という気がしている。今の世の中に限った話なのかどうかは、わからないけれど。
多分、世の中の多くの不安はこれが不足することによって発生する。自分が他者に受け入れられていないのではないか、という不安。自分の存在が承認されない不安。
その不足??
仕事をする時だって、試験を受ける時だって、恋愛だって、私たちがすることを見渡してみれば、その全てに関して、結局そこにあるのは承認なんでしょう。自分の努力なり、自分のしてきたことに対して、周りから承認を与えられることによって、やりがいなり達成感なりなんなりが発生する。人によって、そこにかける重みの違いはあると思うけれど。非常に重要視する人もいると思うし、むしろそんなの関係ないよ、って人もいるとは思う。
けれども、そういう承認を得られるのは、そう簡単なことではない。
数的な制限とか、様々な制約によって承認を与えられる数が限られている場合などもある。それ以外でも、本当はもっとたくさん与えられていてもいいはずの承認を、受けられていないことも多い。実は、私たちは承認を希求しているくせして、承認を与えることに関しては無頓着だったりするんじゃないか。
体を売る少女たちがしばしば口にする言葉として、「自分が求められている、必要とされている、だから、安心できる」という言葉がある。
これだって、刹那的とは言え、一種の承認の形なんだろう。そして、刹那的であるとはいえ、このような承認が生み出す安心感は大きい。人は皆、レベルの違いこそあれ、多かれ少なかれ、こういう承認を求めているのだ。その表出の形が違った形で出てきているだけで。多分。そして、それが欠けていることが多いのではないか??
結局は相手の視点
なかなか承認が得られないと、焦ってしまいがちだけれど、自分のことを理解して、承認してくれる人は、必ずどこかに存在するのでしょう。そうやって多分世の中は出来ている。今までだって、きっとそうやって生きてきた。
そのフェイズが異なっていたり(求めているところとは全く別のところで承認されていたり)、レベルが異なっていたり(自分があまりに高い承認を求めていたり)、捉え方が異なっていたり(他人からの承認を自分が承認と受け止めていなかったり)することによって齟齬は生まれてしまって、自分はそれを受けられていない、と感じるかもしれないけれど。
それを踏まえたうえで、他人に承認を与えるという行為は非常に難しいと思うのだけれど、こういうところに自覚的になりながら生きてみたい。これまでの様々な自分の経験と結びつけて考えてみても、自分自身を鑑みてみると、こういったところが欠けていたのかもしれない、と思う。承認を与える、という感覚。
他人に簡単に「焦んないでも大丈夫だよ!」とかいう言葉をかけるのは、本当はどうかと思う部分がある。実際に実感として感じているとはいえ、人により承認のレベルは違うだろうし、置かれている状況の違いが、持ちし者と持たざりし者の覆しがたい差を生み出しているということもあるし。そういった違いというのは、どうしても生まれてしまうところはある。
それでも、上で述べたような、フェイズなりレベルなり捉え方なりを把握した上で、それぞれ相手にあったような承認の与え方をしてあげることが大切なのかな、と思う。これだって、自分なりの視野に捉われていてはダメなのだ。自分が「相手が必要としているであろう」と思っていることと、実際相手が必要としていることは、往々にして違うのだ。そういうところを見極めながら、適切な承認を与えることが出来れば良いのだと思うのだけれど。巷でよく耳にする「包容力」っていう言葉だって、結局承認の与え方を別の言い方で表しただけなんじゃないかと思う。包容力があるっていうことは、承認の与え方がうまいっていうことなんだろうと。
…可能かどうかはわからないけれど。うまく伝わるのかな。そういうのって。
ということを考えていた。
こういう実感は、特にこの2ヶ月くらいで徐々に固まっていきました。ちょっと前までしていたことだって、結局、一種の承認行為だもんな…。承認が得られないことに対する不安は非常に大きくなる。自分自身にも跳ね返ってくるしね。言語化、概念化することで不安が解消されるかと思いきや、そうでもないと思う。やはり、実態がわかったところで、不安なものは不安だ。
コーチングで使われていたりとか、モチベーション論で使われていたりとか、結構この概念は研究されているようですね。当然か(笑)。っていうか、そういえば、マズローの欲求段階説にもどっかにあった気がするなぁ。個人的な感覚としては、ビジネスとかそういうレベルだけでなくって、私たちの生活全体を通して重要な概念な気がするなぁ。自覚的になりたいものですね。
何かごちゃごちゃ書いてしまいました。まとまってねーな。