上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

積み重ねた時間

ちょっと込み入ったこと書きます。

基本的に、「最初から私たちこうなる運命だったのよね!」なんてのは信じないっていうスタンスを取っていて。そこにいるのが別の人でも、多少別の形を取るとは言え、それはそれで成り立つことにはなると思うんです。たぶんそこに別の人がいたとしても、その人は同じことを言うのだと思う。運命なんて、あくまで後付けに過ぎない。

けれどもやっぱり「この人じゃないといけない」っていう状況が作り出されるのは否定できない。では、それを作り出すのは何かというと、積み重ねた時間だと思うのです。誰だって、最初はフラットな状態から入ると思う。ビビビを信じる人はそれはそれでアリだと思う。顔かたちが好みと一致していたり、性格が一致していたり、なんていうことはあっても良いと思う。けれども、それはその人じゃなくても良くて、同じような素質を持った人がそこにいたらその人が対象になっていたかもしれない。そういう意味で、代替性があると思うのです。だって、日本には1億人もいるのだもの。多かれ少なかれ好みが一致する人は何人かはいるはず。それはタイミングでも何でも良い。けれども、一緒に過ごした時間なり、その人が経験的に積み重ねてきた知識なりというのはその人だけにしか与えられないものなのであって、それこそが大事なのだと思うのです。人間の適応力には素晴らしいものがある。だから、相手に合わせて色々自分が変わったり、相手が変わったりして、だんだんとしっくりくるようになっていくのだと思います(逆にそのせいでしっくりこなくなることもある)。

だとしたら、そこを充実させることこそが本来的に考えるべきところなのだと思う。

自分はそういう風に思っています。積み重ねた時間にこそ重みがあると思う。「もともと特別なオンリーワン」なんてのは嘘だ。そういう観点で言うならば、「誰かにとって大切な人」を目指すのはとても時間のかかることであり、とても難しいことでもあります。「誰にでも大切な人」を目指すことのほうが簡単だといって良いのかもしれない。それは、ただ与えられた状況に対して、それ相応の振る舞いをしていれば出来ることである。ある程度相手のことを知り、ある程度その相手にあわせてこうしたら良いだろうな、と思うことをやるだけのことである。その繰り返し。誰に対しても。その場面だけ自分の果たせる役割を示してやればよい。けれども、そこでしていることというのは、確かに色々自分がやっていることはあるけれども、自分がやっていることは実は自分でなければ出来ないことではなく、同じような能力を持った人なら誰にでも出来ることなのであり、自分がいなくても誰かがその代わりにこの役割をするだけなのである。結局のところ、その程度に留まってしまうんだよね。深度がない。

普段は見て見ぬふりをしているけれど、時々その事実に気付いてしまうことがあって、そんなときは底抜けの虚無感に陥ってしまう。結局自分がしていることはなんなんだろう。

ある程度自分の中で落とし前はついているはずなのだけれど、たまにどうしようもない虚無感に陥ることがあるのですよね。まぁでも、実際に誰にだって出来ることなのは、変えようのない事実なのだから仕方がないのだけれど。納得するしかない事実。そして、その方が楽なのも事実なのだ。「誰かにとって大切な人」は、良きも悪きも引き受けるから重みがあるけれど、「誰にでも大切な人」は、良いところだけ取ってもらえば良いから楽なのだ。便利屋的存在。まぁそれはそれで重宝されるから良いかなとも思うし、その存在にもそれなりの価値はあるのだろうから良いとも思うのだけれど、まぁ虚無感からは逃れようはないよね…。

結局のところそこの境目は「全てを引き受ける覚悟」が持てるかどうかだと思うのだけれど。

くだらない戯言でした。実は仕事から着想を得ていたりする。誰がやっても同じなんだよ、結局は。って言われるような仕事をしているうちはまだまだですね。この人じゃなきゃ駄目だ、って言われるように時間を積み重ねたいと思います。