上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

後ろめたさと生きてきた

思えば、人生のほとんどを後ろめたさと共に生きてきた、気がする。

何一つ悔いはない人生などはなくって、ほんの小さな決断でも、選択には失敗と後悔がつきまとう。そのとき、その後悔を自分の外のせいにするのか、自分のせいにするのかは人により異なるけれど、私は後者であることが多い。ほんの小さな後悔でも、その後悔が積み重なると、自分の肩の上に重くのしかかってきて、なんだか気分が重くなるのだった。

最近はそのいなし方も少しはうまくなってきて、後悔の軽減だとか、自責にしない術などを身につけたりしてきたおかげで多少なりとも息苦しさを感じることは少なくなったと思うけれど、それでも仕事、プライベートで選択の機会が身の回りに山のようにまとわりついてくると、どうしても後悔の数は多くなる。だんだんと肩の上に乗った重みに押しつぶされて、自分の位置が低くなっていき、自尊心が消えていく。

自責にしてしまう1つの大きな要因は自分のさぼり癖にあって、常に「100%を出していない」ことにあるのだった。100%考え抜いた結果であったり、100%努力した結果であれば悪い判断や悪い結果にも後悔は残らないけれど、なんとなく常に全力を出せなくって、「また全力を出せなかった」という思いが、少しの悪い結果でも自責として肩の上に乗ってくるのだった。募る後ろめたさ。

さっき、明日は休みなのに、なんだか気分が晴れないなぁ、と思いながら家路を歩いていて、そんなことを思ったのだった。今日も会社ではたくさんの判断をした。正しい判断をした気もするけれど、誤った判断もいくつかあった。そんな誤った判断が、肩の上に未だに乗っかっているのだった。風呂に入っても落とせない重り。たぶん、明日も何もやることがない休日になってしまう、という焦りもある。生産性のない、ぼんやりとしていたら終わってしまう1日。休みの日は休みの日で、きっと、別の重りが肩の上に追加される。自分との闘いの結果。

こんな状況を諦めながら客観視できるくらいにはこんな自分との付き合いも長くなっているけれど、結局、解決策が見つかっているということではない。なんとなくのらりくらりとかわしながら、こうしてただ、明日の自分へと体をつなげていくだけなのだった。