上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

誘い

人間関係絡みで。なんとなく思っていることをつらつらと。

誘いにも色々あって、もちろん気乗りのしない誘いからすぐにでも乗りたい誘いまで様々な段階の誘いが存在する。もちろんすべてが諸手を挙げて参加させていただきます、的な類のものであれば望ましいのだけれど、中にはそうでないものも存在する。しかも、そういうのに限って、丸1日休みの日とか、この日は休もうかな、と思ってた日に突っ込まれてくる。相手にとって都合のいい日、というのは、自分にとっても都合のいい日、であることが多い。

何かしら適当な理由をつけてサボってしまうのも1つの手ではある。こっちの私的な事情は向こうもわからないし、架空の先約を設定して「先約がありまして」とか言っておけば、別にそれだけの話ですんでしまう。でも、極力それはしたくないと思っている。まぁ不誠実な態度だ、っていうのが一番にはある。そういうウソって、どこでバレるかわからないし(特に昨今情報ツールが発達し、どこぞでタグ付けされるかわかったものでもないし)、後ろめたさがぬぐえない。そういうのって、一度やりだすとそれが普通になってしまう気がして。

もう1つそれを厭う理由として、先方としても何らかの理由があって誘ってくれているのだろうし、気乗りのしない誘いであるからと言って得るものが全くゼロであるとは言えないからだ。昔、ある会合に出た時にその人が言っていたのは、「10回中10回良いことがあるとは言わないけれど、まぁその中で3回くらいでも得るものがあればいいんじゃないの、というような気持ちで来ている」という内容のことだった。結局、そういうものだと思う。そういう誘いに限らず、人生に起こることってすべてが良いことであるとは限らなくって、むしろ空振りの方が多いくらいだと思う。それでも、玉石混交とりあえず数を打たなければ、その中にある玉に巡り合う確率もそれだけ下がることになる。あるいは、他山の石であっても、自分の石を磨く材料に為り得る、という考え方もあるし。相対化の中で生きているのだから、それだけ多くのサンプルに巡り合うというのは悪いことではないと思う。あ、これは自分には合わないんだな、ということがわかるだけでも収穫である。その対極を知れればそれでいいのだから。もちろん、帰り道で、「あぁやっぱり空振りだったなぁ」と思いながら帰ってくることもあるのだけれど(笑)。

もちろんそれより魅力的な誘いが来た場合には、考えるけれど、基本的にはやはり先約を優先させる。個人的な好みでの判断だと、軽重を自分のさじ加減で調整してしまうため、判断に対して後ろめたさが残りやすい。それに対し、予約の前後関係を判断基準にしてしまえば、時間軸という明確な基準があるため後ろめたさは残りにくい。もちろん気分的なもやもやは多少残るけれど、自分の中でそうすると決めた場合の割り切りはしやすくなる。判断基準を自分の中に残してしまうから迷いが生じるのであって、その外に出してしまえば自分が迷うことはない。もっとも、その誘いの内容にもよるけれど。夜飲みに行く、くらいだったら割と軽い気持ちで判断できるけれど、丸1日拘束されて時間もお金もかかるようなものであった場合、ちょっと判断を躊躇する。これはさすがに仕方のないことだと思うけれど。

誰かを誘う、というのは、相手に対しても同じ判断を要求する、ということと同義である。ついつい、相手の都合とかそういうのを考えて、誘うのを躊躇ってしまう。考え方によっては数打って相手に要らないものは切り捨ててもらえばいい、という考え方もできる。そういうマインドを持っている人にはそういう誘い方が出来る。けれど、きっと世の中そういう人ばかりではない。めんどくさいな、と思う人も多いだろうし、困る人もいると思う。自分にとってもは良い選択でも、相手にとって良い選択であるとは限らない。このことは、常に頭に入れておくべき事柄だと思う。だから、誘う、という行為が苦手なのである。特に、まだ関係性が掴めていないような相手だとか、会って間もない人だとかには。自分が厭う分にはいいけれど、誘いというのは相手に放った瞬間自分の手を離れ、もうそこから相手の問題になるのである。それを緩和させる行動として、集団に紛れ込ませる、という手法があって、「この日みんなで飲みに行くけどどうですか」的な誘いだと、断りやすい、とかっていうのはあると思う。個対個の誘いだと、どうしても個対個の関係性で考えてしまうけれど、集団対個であれば、その関係性は薄いものとなる。だから、色々考える余地も少なくなると思うのだけれど。その辺はきっとこんな面倒なことを考えてやっているわけではなく、無意識のうちに色々な手法を扱って紛れさせているはずだ。

結局は、どれだけその人との人間性を築けるか、ということに行き着く。相手と1対1で飲みに行けるようになるか。そこに多分1本の線引きがある。遠慮されないくらいに誘い誘われ出来るようになったら、ある程度の人間関係が築けている、と思うのだけれど。それだけ自分も相手のことを知っている、ということだし、相手も自分のことを知っている(正確に言うとどれだけ相手が自分のことを知っているかおおよそ想像がつく、っていうことになるんだろうけれど)、ということなのだろうから。