上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

まとも

昔からまともになりたいと思って生きてきた。2011年の記事でも書いているし、おそらくその前からもずっと。

その甲斐あってか、最近はある程度は自身もまともになったと思っているのだけれど、村上春樹の小説中の言葉を借りて「私たちがまともな点は」「自分たちがまともじゃないってわかっていること」であるとするならば、もしかしたら、自分自身がまともじゃなくなってきたのかもしれない。抽象的な表現を借りながらそう考えるに至っている理由は、今の周りを眺めていてあまりに周りがまともに思えないからなのか、それとも本当に自分がまともじゃない方向に逸れていってしまっているのか。異常の中にある正常は、異常から見たら異常に見える。

10年前とはもちろん自分も変わっているけれど、周りの状況も変わっていて、まともであろうとするというのが絶対的な何かを捕まえる試みではなくて、相対的な移ろいゆくものの中で捕らえなければならないことなのならば、10年以上私が求めてきた「まとも」は徐々に変わっていてもおかしくはない。それを、私は「まとも」という抽象的な概念で名付けて、自分の信じている何かになろうとしてきた。

今いる身の回りの小さな世界でのものなのか、もっと大きな世界の中でのものなのか。あとは結局自分で定義するものなのか、他者に定義されるものなのか。少なくとも、10年前よりは(自分の中でのこうした感情も含む)色々な物事のかわし方はうまくなっていて、それなりに落としどころを見つけながら世の中を生きている。でも、たぶんこの先の10年も、きっと私はまともでありたいと思いながら生き続けることになるのだと思っている。