上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

真っ当

というわけで真っ当性について再度脳内会議を開催する機会をいただきました(笑)。

これまでにも何度も私のブログの中に登場してきた「真っ当」という言葉ですが、登場のたびに何度となく「わかりにくい」というご指摘をいただいております(笑)。まぁそれもごもっともなのですけれども。

では、まずは「真っ当」を定義してみますかね

先日の記事で言えば箇条書きの9〜11番目の部分が一連の流れになっている。

「真っ当」とは、辞書を引いてもただ「まともなさま。まじめなさま。」としか書いていない非常に曖昧な言葉ですが、私の用法としてはこの「まとも」に近いほうだと思っています(まじめ、という言葉の持つイメージとはちょっと異なると思う。もちろん「まじめ」が前提に近いところにはあると思うけれど)。この「まとも」っていうのが面倒なんですね(その分使いやすいんだけど)。そもそも「まとも」なんて人によって定義は様々なのであって、100人いたら100人それぞれ「まとも」のイメージがあると思うんです。まぁその中でも、人の「まとも」にも範囲があって、例えば人に対する評価1つとってみても、100人中80人くらいが「まとも」と判断する人もいれば100人中20人くらいしか「まとも」と判断してくれない人もいるわけですよね。そうやって同意される数が多いものの総体から世の中一般的な「まとも」が構成されていると個人的には思っている。「まとも」っていうのは、世の中一般の人びとの「まとも」の評価の、なんとなく真ん中らへんにあるもの、的な認識。

それを前置きとしておいて私がいう「真っ当」(nearly equal まとも)というのは、takuさんのコメントで言うなら「一般的な」と「正しい」を兼ね備えた部分であるといえます。おそらく。

「正しい」人は世の中にたくさんいます。けれども、正しさをギリギリまで追求しようとするとうまく生きていけなくなるのがこの世の中なのではないでしょうか。nozomyさんも言ってたけど、哲学的にモノを考えられる人っていうのは確かに賢いのだけれど、かといっていつも哲学論ばかり垂れている人は疎まれてしまう。だって、日常から正論とか哲学とかばっかり聞かされていたら嫌になっちゃうじゃないですか、世の中一般の人は。そういう意味で、100人に聞いて100人が「まとも」と答えるかといえば、こういう人たちは「まとも」ではないと判定されるのではないでしょうか。おそらく。世の中一般的には。(こういう部分が「真っ当」が「まじめ」のイメージからちょっとズレてる気がしてしまうところでもあるのだと思う。まともな人はまじめであることが多いのだけれど、まじめな人がまともであるとは限らない、のではないだろうか、という気がしてしまうのですよ。まぁ「きまじめ」っていう言葉もあることはあるけれどまじめには負のイメージも強い気がするなあ。)

だから、正しくあろうとしながらかといって人に疎まれないようにしたい。そういう両方の欲求を満たしている人が「真っ当」(nearly equal まとも)なのではないかと思うのです。正しい判断は出来るし、かといって全然面倒くさくない。そういう人を人は「まとも」だと評するのではないでしょうか??

これが全てではないけれど、私の中の「真っ当」の定義の7,80%くらいはこれで定義できるような気がします。これが全てではない、っていうのは、「正しさ」以外にも色々とその判断基準があるからですね。例えば自己嫌悪とかっていうのもそうですね。自分の悪かった点を素直に認めて反省する人は成長するし信頼に足ると思うけれど、度を過ぎて自己嫌悪に至ってしまうと、周りに悪影響を及ぼすだけになってしまうわけですね。前者は真っ当(nearly equal まとも)であり、後者は真っ当(nearly equal まとも)ではない。ただ、「正しさ」と「自己嫌悪」がすり替わっただけで、考え方としては似ている。だから、7,80%くらいはこれでカバーできる。

そして、なぜ私は「真っ当」に捉われているかというと。

先ほどから「世の中一般的な」という言葉をくどいくらい連発してきましたが、「まとも」っていうのは、世の中一般の評価によって構成されているのではないか、というのは前に述べました。この「世の中一般」というのが、上で「100人いたら80人くらいがまともと答える」という100人の母体になっている部分なのですね。そして、私のブログにはこれもまた高頻度で「世の中一般的には」という言葉が出てきます。私は、世の中の目、人の目を気にする傾向が自分にはあると思っています。この「世の中一般的」というのが何を指すのか、というのもまた難しい話ではありますが(これも100人いたら100通りの「世の中一般」のイメージがあるでしょうからね)、それを言い出すとキリがなくなってしまうので、それは置いておきます。まぁ、私の中にも「世の中一般」のイメージがあるわけですよ。その上で、私には「世の中一般の人に嫌われたくない」という意識が強いのではないかと思っているのです。嫌われたくない、っていうのは、誰しもが思うことなのかもしれませんが、でも私は他の人よりそれが強いのではないか、という気がする(思い込みなのかもしれないけれど)。だから、「真っ当」への希求が頭から離れないのです(半ば強迫観念的に)。

そして、これらの議論を踏まえると、結局のところ、この道に至るには「極端な部分」と、「平凡な部分」の「バランス」が大事なのではないかと思うわけです。「哲学的」と「世俗的」のバランス然り。哲学ぶりすぎる人は嫌だけど、何も考えなさすぎる人もイマイチ信用に足らない。そんな感じ。ここで、私のブログで幾度となく出てきている「バランス」に行きつくわけです。結局両極端な人っていうのはやはり極端であるが故真ん中からは外れてしまうのであり、世の中のおおよその人が「まとも」と判断する領域からは抜け出てしまうわけです。正しい人はいるけれど、正しいがゆえに中心とは限らない。そこで、うまくバランスを取りながらやっていける人は、うまく舵取りをしながら真ん中に近い部分に近づいていけるのではないかと思っているわけです。それが、「真っ当」なのではないかと。

という定義をした上で先日の話を再翻訳するならば

まさにnozomyさんのコメントが適切だといえるでしょうね。本来なら、熟考を重ねた上での「適当」なり「世俗」なりに近づけるならそれが一番良いといえる。ただ、最近感じているその「目標のなさ」っていうのは、単なる「世俗化」に近いのではないかと考えるわけです。「良い意味でも悪い意味でも適当になってきた」と書きましたが、良い意味で言うならば、話を面倒くさくしなくても良い場面で話を面倒くさくしなくなってきたという意味では良い意味。悪い意味で言うならば、しっかりと考えなければならない場面で思考を放棄するという意味で悪い意味なのです。この辺のバランスをうまく取ればより「真っ当」に近づいているのですが、「真っ当」を目指すふりをして、実はtakuさんの言う単なる「一般化」になってしまっているという可能性があるわけですよね。

nozomyさんのコメントにある「敢えて」という表現については、前「信頼」について書いたこの辺の感覚も非常に近い。なんていうか、単なる楽観視ではなく、留保がある上での楽観視。これが出来るようになりたいものですよね。けれども、その留保的な部分が最近抜け落ちているのではないか、ということ。単なる反動になってしまっているのではないか、というところ。

うーん、これをこの短いコメント欄でまとめたnozomyさん、さすが(笑)。

(補足)ちなみに「生きやすい」ということで言うと

先日の記事の箇条書きでは、9〜11番目につながる12番目につながる部分としてあるのですが。

上にある「真っ当」の説明では「他の人にとって」という面に重点を置いて説明してきた感じですが(だって「まとも」っていうのはあくまで世間一般からされる他者評価に過ぎないから他者視点が中心的になるのは仕方がないといえる)、これは同時に、自分にとって生きやすい部分もあるのだと思うのです。

他人にとってめんどくさくないっていうのはやっぱり自然だからだと思うんですよね。だから、自然になろう自然になろうとすると、必然的に自分にとっても生きやすくなるのではないかと。先の自己嫌悪の例なんてまさにそんな感じ。自分で反省するのが自然に出来ているうちはいいんだろうけれど、それが度をすぎると周りにとっても不自然に見えてしまう(扱いづらくなる)。で、不自然な状態っていうのはどうなっているかっていうと、やっぱり自分にとっても何らかのダメージが出ているわけですよね。そうすると疲れてしまう。周りも、自分も。おそらく、nozomyさんのいう「楽しく長生きできそうなかんじ」っていうのもこれに近いのではないかなぁ。結構昔から同じようなことは言っていて、この辺なんかも近いのかもしれない。逆もまた然りで、自分にとって生きやすいように生きると、人からも自然とめんどくさくなく見られるようにもなるんでしょうけれどもね。

こんな感じでよろしかったでしょうか。

以上、1時間半ほどに渡って、頭の中を整理しながら昔の日記を振り返りながらの脳内会議でした。

おそらく、もっと引用すればいくらでも出来るはずです。「あ、そういえば昔、こんなこと書いたな」なんてのが結構頭の中にもありますが、ちょっと時間不足とそれらを交えてまとめあげられる気がしなかったので省略しました。昔からしてきた議論は、この辺の感覚が結構通底しているわけなんですね。「生きやすい」とか「世間一般」とかで検索かけると結構出てきます。まぁ、それだけ根っこを深く張っているということなのかもしれませんね。

今回、まとめる機会を戴きありがとうございました(笑)。うーん、だいぶまとめられた気がするんだけどな。けど、相変わらず回りくどい言い方をしている部分もあるのかもしれない(まだ勢いというか頭の流れに任せて文章を書いてしまっている)。そして、「世の中一般」のイメージや、「まとも」のイメージが、人によって異なる時点で、100%の理解っていうのは永遠に得られないものなのですけれどもね…(笑)。

takuさんのコメントで言うとおり、こんな記事書くのに1時間半もかける時点で随分「真っ当」の道を外れているのです(^^;)。でもまぁ、これが性なんだから仕方ないんだろうなー…