上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

ふるまちめぐり

昨日は古町で買い物。新潟の「旧中心街」。

先週社外の勉強会に参加した際、たまたま同席した方のショップへ行ってみた。せっかくの機会だったので。そこで1時間ほど、立ち話をした。古町の今昔が聞けて面白かった。印象に残った会話で、「10年前くらいは高校生とかいっぱいいたんだけどなぁ‥今の高校生はどこに行ってしまったんだろう‥」って言ってた。ちょうど昨日書いたけれど、巨大ショッピングモールに行けば高校生はたくさんいる。なんだって集まっている。でも、曰く、「それで楽しいのかなぁ‥」って*1

その後別の行きつけのお店に行って、また店員さんと1時間ほど立ち話。「やっぱりずっと見てくると、似合う似合わないとか一瞬でわかるんすよ。形とかはこれまでに一度通り過ぎたところが前提としてあって、その上に素材感とかが重なってくる。」って言ってた。その店員さんも専門の頃からずっと古町で服買ってて、前述のお店にもよく行っていたんだそうだ。話してても、自分に合う服とかすげえよくわかってるし(アパレルの店員さんだから当然なんだけど)、アドバイスとかも凄く良くって、買い物にはずれがない。色々合わせて見せてくれて、そのそれぞれの良さを教えてくれる。古町の良さは、「それぞれのお店が個性を持っていて、あの店に行けば自分に合う服が見つかる、ってところだと思うんですよね…」って言ってた。

最近の古町は閑古鳥が鳴くようになって久しい、と聞く。私が来たころには既に、そうなっていた。新潟も他の地方都市に良くあるように、駅前と離れた川向うに繁華街がある。けれども最近は駅前の再開発が進み、全国展開している大手のチェーン店などが進出した駅前に人が集まるようになった。でも、そうなる前に確実に歴史があって、そこで育った人がいて、豊かな文化がはぐくまれていたのだ。曰く、店員さんの祖父の時代には、それこそまっすぐ歩けないくらいの人が通りを歩いていたという。そういうものが大量生産、大量消費に押されて、失われようとしているのは、とても寂しいことだと思う(もちろん理由はそれだけではないけれど)。

私はずっと、「本物は本物に触れないとわからない」と思っていて、いくら本を読んで知識を吸収して頭で理解しても、肌で感じないとそれが体得できないと思っている。頭で考えることなんて所詮理屈に過ぎないのであって、体で感じた言葉には到底かなわないものなのだと思っている。そういう意味で、そういう「本物」に触れあえる場所が失われつつあるというのは、とても悲しいことであるし、ある種の「危機」と言ってもいいのではないだろうか。「時代の流れ」と言ってしまえば、それまでなのだろうけれど。

自分自身、こういうところで服を買うようになったのはつい最近のことだし、マトモに服を買い始めたのすらつい最近のことだし、そもそも服に興味を持ち始めたのも最近のことだ。そんなもんで、知識も全くゼロに等しいし、まだまだ全然わからないことだらけだけれど、でも、せっかくそういう環境を見つけたのだから、ここでその分野を少しでも伸ばしておくことっていうのは良いことなのではないか、という気がする。センスなんて0か100かの話ではなくって、少しずつ背伸びをしていればいつの間にか、そこに追いついているようなものなのだと思う。自己満足だけれど…。

結局、両店とも、きっちり1点ずつお買い上げして帰ってきてしまった。それ相応のお値段。でも、確かなモノづくりなのはわかるし、たぶん、後悔しない買い物。身銭を切ることを惜しむよりかは、色々経験を積み重ねたほうがいいような気がする。

っていう、自分自身の散財への言い訳(笑)。

*1:色々な要因がそこにはあって、昔の高校生ほど今の高校生はお金を持っていない、とか、ゲームとかその他の誘惑が増えている、とかっていうのはあるんだろうけれど、という話にはなった。昔は高校生が一番お金を持っていたのだ。小遣いもらった上にバイトなんかしてたっすからね、なんて言って。