上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「仕事に行く」ということ

職場のえらくて仕事もできて仕事も厳しい人が、ふとSNSで「会社を辞めたいと思うことはしょっちゅうある」「子育てが終わるまではと腹をくくっていたが、子育てが終わるつつある今が潮時だと思うこともしばしばある」みたいなことを書いていると、まあなんていうか、いろいろなことを思う。ああいうポジションにいる人ってそういうことを思わないと思っていたふしもあるし、たとえ思ったとしても、そういうことを誰もが見れるSNSに書かないと思っていたふしもあるし。ひょっとしたらなんか裏があってそういうことを書いているんじゃないかと勘ぐってしまうくらいに。仕事って、やっぱりそんなに厳しくあるべきなんだろうか。会社のために働く、っていう時代でなくなってきているのはきっと我々の世代の空気としては間違いなくあって、そういう世代の人でない人でさえ、こう思っているということは、我々の世代がその年齢になったときには、どうなるというのか。会社のために仕事するんじゃなきゃ、仕事の質って多少なりとも落ちていくと思うこともある。自分のため、には、結局どこかで限界がある。人間は、安きに流れる生き物だと思うし。毎朝吐きそうな思いで、目覚ましなる前に目が覚めて、それでも重い体ひきずって満員電車に体押し込めて会社行くことの意義とは。

ちょっとかわいい女の子とかっこいい男の子を出して、ちょっと盛り上がるシーンがあって、ちょっとした不幸があって、でも最後円満にハッピーエンドで終わるとてもつまらない映画を見た後に、長々とスタッフロールが流れているのを見ると、この映画1本にも裏側にすごくたくさんの人があって、この映画があることによって明日の食い扶持を稼ぐことができた人がいるのだ、と思う。主演女優や脚本家といった、三顧の礼で迎えられる人から、エキストラの1人まで、1人1人に同じだけの生活がある。私にとってはつまらない1本で、時間を無駄した、とか思うこともあるけれど、その作品にはそれぞれの人がそれぞれの生活や想いをかけて向き合っていて、そういう意味ではなくてはならないものだったのかな、とも思う。一方で、そういう資本主義的な部分に嫌気がさしている自分がいるのも事実で。結局食い扶持を稼ぐためだけに作られた感もないわけではなくって、お金を回すためだけに作られた、意味のないものだったのかな、とも思う。その作品によって回されている、生かされている人生っていうのもなんか哀しいなあ、と思う自分がいるのも一方にいて。昔、村上春樹が「文化的雪かき」と評したような。資本主義社会を回すためだけに、お金を稼ぐためだけに、誰しもがそれなりに微妙な思いを抱えながら、それでも進んでいく仕事。そういう仕事って、実は、文化的なものでなくても、いくらでも身の回りに転がっている。私の周りにも。横にも、前にも、後ろにも。(上から目線で申し訳ないけれど)

とりあえず、そうやって私の日々も回っている。多少なりとも、世の中の役に立つため、と思って選んだ仕事。そう思える瞬間って、たぶん長い会社人生の中でごくごくわずか(ひょっとしたら、もうないかもしれない)だということはもはやわかってしまっているけれど。何のために、働くのですか。就活生みたいなことを言っているけれど、就活生の時にOB訪問で聞いていた問いに、いまだに答えが出せていない。今、OB訪問で同じように問われたら、なんと答えるのだろう。こういうのって、ちょっといいお酒を飲みながら話したほうがいいと思うんだ。