上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

無駄なメモリ

昨日行ったボードが楽しかっただとか、今日すっげえ快晴の中雪原のドライブがすごく心地よかっただとか、ずっと前買って以来使いどころがわからなくて履いてなかったカーゴパンツを近所の仕立て屋ですそ上げしたら実はめっちゃ使えそうなパンツに変身しただとか、秒針がズレて動かなくなった機械式時計を商店街の外れの小さな時計屋で直してもらったら2000円ですぐ直してもらえただとか、見渡してみると良いことっていうのは実は身の回りに結構あるんだと思うけれど。

それでも日々に対して悲観的になってしまうのは、単純に性格的なものだと思う。これらが単発の出来事で先につながっていく気がしない、というか、先行きが見通せない、と思ってしまって。それを先につなげていくのは、信じていくのは自分なのに、その努力をしようともしないで、受容の仕方を変えようともしないで、結局同じようなことを繰り返している。いつまで同じことを繰り返せば気が済むのだろう。問題は世界の受け止め方自体=私自身の中にあるのはわかっているのだけれど。

無駄なメモリを食っている、というか、脳の働きの中で常にこの部分がある程度の範囲を占めていて、そのせいで出来るはずだったことも出来なくなっている。そのせいで無駄にしてきたことってきっと私の人生の中には凄く多くあるはず、だと思っている。余計なことに思いわずらわなければ、そのせいで一歩踏み出すのを躊躇しなければ、きっともっともっと色々な高みに到達できているはずなのに。誰かの助けを借りないと変わらないのかしら。自分の取り組みだけでは限界があるのかしら。

もうこんな年齢。こんなこと言っていられるような歳じゃないと思うんだけど。