上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

判断とそこからの責任

私は自分のしたことに対して、そこに付随して起こる可能性に対して自分が全責任を負えるか、自分1人でなんとか出来るか、ということを一つの判断基準にしている節がある。

自分のしたことによって他人に尻拭いをさせることにならないか、自分のしたことによって他人に迷惑がかからないか、ということ。仮に何かマイナスの事柄が起こったとしても自分で処理が出来るような範囲内の見積もりが立つようであれば、まぁやってもいいか、ということになるけれど、自分じゃちょっと責任が取れないような事柄が起こり得るよな、とか思うと、手を出すのをやめておこうか、という話になる。そして、そのマイナスの見積もりとプラスの見積もりを比較してGOサインを出すうえでの基準点が、おそらく他の人より慎重寄りに振れている。

犬を飼いたい、という例

わかりやすい例で、子どもが「犬を飼いたいんだけど…」って言いだすときの状況を持ち出す。

「どうせ一人では世話できないしお父さんが散歩させることになるんだからやめておきなさい」っていうお父さんの考えを見越して、それに加えて「犬飼うと、もし吠えたら周りの人に迷惑かかるしな、えさ代とかもかかるし、買う場所も必要だしな、しつけもちゃんと出来るかな…やっぱやめとこうかな‥」って考えて言いだす前に諦めてしまうのが私のタイプ。親の否定とか、自分の未熟さとか、そういうのを見越してひとりで未然に諦めてしまうような感じ。とりあえず飼いたいって言ってから考えればいいじゃん、とか、なんとかなるんじゃん、とか、そういう手間とか私が絶対に頑張るんだもんね、とか、そういう思考にはならない。欲望が一瞬浮かんでも、それに付随するリスクとかそういうのを思い浮かべて現実的なシミュレーションをして、欲望の方を押し殺してしまうことが多い。

後天的なもの

自分が三男で兄たちの失敗例を見ながら育ったから、というのも関係があるのかもしれないし、母親の愚痴を聞かされ続けて育ったから、というのもあるのかもしれない。

私の育った家庭では、父親が自分の思いつきでものを買ったり何かを始めることが多く、母親はそれに付随しておこる物事を片付ける役割をしていた。そして、その母親の愚痴が全て私に降りてきていたような節がある*1。例えば明日旅行に行くぞ、と決めたら、旅行に行くことだけを考えているのが父親で、具体的な旅行の準備から何からするのが母親なのである。着る服の準備をするとか、不在に備えてあらかじめ家を掃除しておくとか。そして旅行に行く途中には、目的地に向かって運転するのは父親であるが、地図を見るのは母親、といった形。「やると決めたらそのことしか考えなくて、その過程で準備にかかる手間とかそういうのは全部そばにいる人に投げっぱなし」というのが母親の言い分である。どうも、それを聞きながら育ったためにこういう性格になってしまったのではないか、と思っている部分は大きい。

けれども、旅行に行った結果そこで楽しい思い出が出来るのは事実であり、そして、確かにその決定をするのは父親なのだ。モノを買う、ということに関しても同じことが言える。最初は母親の「だから維持管理をするのは誰なのよ」っていう意見に同調していても、結果的には買ったものから多くのことを得られているのは事実なのだ。結局維持管理は他の誰か(実家の例で言えば母親)がしているという事実があったとしても、その支えのもとに大きなものが得られているのは事実なのだ。その点で私は父親の判断力はいつも的確で凄いと思うし、そんな父親のことを批判するばかりではダメだ、と思うのである。

隣の芝(再)

だから、こういう私の思考スタイル(=どちらかというと母親の思考スタイルに近いもの)と違う思考スタイルをする人(どちらかというと父親の思考スタイルに近いもの)が非常に羨ましく見える部分がある。

欲望のままにとりあえずやってみてあとから何とかしようとする人とか、色々付随して起こる面倒事を他の人に投げ切って楽しむ人とか、そういう人がすごく羨ましい。得てして欲望に忠実な人って、多くのものを得ている印象がある。まぁそれは当然な話で、好奇心旺盛であるということでもあるのだから、何事にも手を出せば失敗も多いけれど得るものも多いはずなのだ。そして、何かに挑戦してそこに付随して起こる困難を乗り越えようとする過程で成長することも多々ある。失敗の可能性を考えて挑戦権を切り捨てるということは、そこで発生する面倒事からもたらされる成長の可能性も切り捨ててしまうことも含み持つ。確かに平穏に毎日を過ごせるのかもしれないけれど、小さくまとまって面白みがない、と言われても仕方がないし、成長の可能性はより小さい。

モノに限らず、人間関係に関してもおそらく同じことが言えている。維持管理、と同じような感覚で、自分のしたことで相手を損なうことがないだろうか、とか、そういうことをまず先に考えてしまう節がある。結局はそんなこと考えずにとりあえず進めてしまったほうが、得ることは多いはずなのに。成長だとか、化学反応だとかの可能性を摘み取っている。マイナスの可能性をそぎ落とすのも事実だけれど、プラスに転じる可能性も同時に失っていることだ。迷惑かけるのも事実かもしれないけれど、逆に助けあうことになるかもしれない。そういうダイナミックな関係性、みたいなのが生まれるのが人間だと思うんだけど。

人を頼る、ということが苦手だからこうなっているのかもしれない。結局さきの両親の例であっても、なんだかんだ愚痴を言いながらも母親はちゃんとフォローするのである。そういうところ信頼関係が築けているからそういうことが出来るんでしょう。信頼関係って、失う怖さを恐れていては築くものも築けない。私はまだ失う怖さばかりを考えている。結局、そういうことだと思うんだけど。

分析はこれまでにしておいて、あとは変えるなりなんなり、行動に移すしかない、っていうところまで来てるのはわかってるんだけどね…。結局、いつもの結論だなぁ…。

*1:それは今でもそうで、たまに実家に電話をしたりすると捉えた電話を逃さないような形で、それはもう長電話になってしまう。