上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

刹那の積み重ね

刹那感が抜けない。

同期旅行は楽しかった。昨日行った別のボードも楽しかった。ただ。確かに同期と一緒に過ごす時間は楽しいけれど、それも恒久的に続くものではない。誰かが企画するのをやめれば立ち消えになってしまうだとか、結婚した人が一人また一人と抜け、気付けば自然消滅していたりだとか、勤務地がそれぞれバラバラになって集まれなくなるだとか、そういうきっかけによって解消する程度の紐帯である。それはそれで心の中に残って消えないものかもしれないけれど、でもそれって、過去のことになってしまって、もうそこから先にはつながらない。だから、今やっていることって、なんとなく、その時限りの楽しみ、という刹那感が抜けない。将来にわたって綿々とつながっていく、積み上げていくような類のものであるように思えない。

それはそれとしてあってもいいんだけど。でも、それをつなぎ合わせてつなぎ合わせて今を紡いでいるようだと、時が経ったときに果たして何を手にして立っているのだろうか、と思うときがある。何も手に持たずに、ただ歳だけを重ねて呆然と立ち尽くしている姿が脳裏をよぎる。仕事もそう。今目の前にあることだけをとりあえずやり過ごそうとして働いていたとして、その積み重ねの先には何があるのだろうか。あのときは良かった、の過去は過去になってしまって、現在を見た時にあなたは何を手にしていますか。どうにもこうにも、そういう刹那的な感覚でしか私生活、そして仕事を捉えていない節が最近見受けられる。

じゃあ刹那的じゃない生き方ってなんなんだ、っていう話になるけれど。

家族と友人の違いってなんだ、っていう話がそれに近い気がする。血のつながりがある親子はともかく、夫婦という関係で見た時、同じ赤の他人同士であるという事実において友人と変わりはない。そこに契約関係があるかないか、ということが形式上の違いになるのだろうけれど、形式的でない部分の違いがこの「刹那的であるかないか」っていう部分なんだと思う。極論を言うと、友人って、刹那の積み重ねだと思う。色々楽しいことをして、それを積み重ねたとしても、前述したように結婚なり転勤なりで環境が変わればその関係は瞬時に解体する可能性を秘めている。解体とまで行かなくても、薄まる可能性は十二分にある。もちろんそうならない関係性は理想だけれど、人にそれを押し付けることは出来ないし、人は変わるものだ。私はその可能性を否定することは出来ないし、友人関係を作る際に、おそらくその可能性が前提として必ずそこにはある。終わりをそこに含んだ関係性。それがある限り、刹那感は抜けない。けれど、家族っていうのは、将来的なものも含めてそういう解体する可能性を否定したうえに成り立つものである。もちろん解体の可能性はあるけれど、それを前提とはしない関係性だと思っている。それを前提とするかしないかで、出来ることやそこに含まれる意味合いって随分変わってくると思っていて。同じことをするにも、心の持ちようとかも随分変わってくると思うの。関係性が続いていく限り、過去があってこその未来の出来事、というつながりがたくさん増えていく。今が将来に対して無限のものを生み出していく。漫画で言う「伏線を回収する」可能性が無限に広がっていく。刹那的な関係性の中で生み出される伏線は回収されない可能性を秘めているけれど、継続的な関係性の中で生み出された伏線はいつ回収されるかわからない楽しみがある。そういう関係性の中でこそ、「誰かのために何かをする」価値が生まれてくると思う。

なんかうまく言えてないけど、刹那的じゃない生き方って、そういうことだと思うんだけど。ひたすら積み上げて、積み上げて、過去が将来を変えていくような生き方。伏線を張りまくっていくような生き方。

頭にはなんとなく形としてあるんだけど、現実は残念ながら、それからは程遠い。30代、40代の姿を頭に描け、とはよく言われるけれど、それが描けない。やっぱり俺がおかしいんだろうか。