上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

モチベーション

モチベーション、というかやる気の問題で本来持っている能力の何割かしか発揮されないというのは悲しいことよね、でも事実としてある。

眠っていた能力を全部開放して素晴らしい力を発揮する、みたいなのはよく少年漫画であるけれど、人間ってそういうところ絶対あると思うの。安きに流れる生き物だし。火事場の馬鹿力くらいの能力は保持しているのに、結局火事場にならないと発揮されない。超人的な意識の強さを持って自らコントロールして発揮させるか、あるいは元から発揮するのが当たり前、みたいなメンタリティの持ち主であればそれはそれは素晴らしいことを成し遂げるのだろうけれど。でもおそらく怠惰な人間はそういう風に意識を持っていくことが出来ない。そういうタイプの人間には、厳しい環境において強制的にそういう能力を発揮させるしかないと思うんだけど。常に火事場、みたいな。キャパシティちょっと上くらいの環境に置かれることでしかキャパシティって増えないと思うの。

性格的な問題もあると思うんだけどね。なんだか常に自信満々な人とか(その自信はどこから湧いてくるのだろう)、なんか色々なことに挑戦するのが楽しくてたまらないんですけど(なんでそんな楽しそうに語れるんだろう)、みたいな性格の人が時々凄く羨ましく見える。自分がそうなりたいかと言われるとうーんと思ってしまう時点で既に私はこっち側の人間なんだけど、でも、そういう人だからこそ出来ることっていっぱいあると思うんだ。そういう自己啓発本とか苦手なんだけど、そういうのを素直に受け入れて取り入れられる人が羨ましく見える。「言ってることは確かに正しいしわかるんだけど…」っていう、なんかひねた目で見てしまう。なんかのとっかかりなのかもしれないけれど、おそらくは身に染みついた価値観とかそういうところが原因なんだろうな…。

要するに、世の中の出来事に対するものの見方、にすべてが起因する。価値があるものに対して価値を見いだせない、あるいは価値を信じられないからこそ、そういうのに取り組む意識の違いが出てきてしまうのでしょう。達成感とかそういう成功体験に対する捉え方の違いとかがモチベーションを支えるのかもしれないけれど。例えば、「成功したときは自分の能力によるもの、失敗したときは運によるもの」と考えるか、「成功したときは運によるもの、失敗したときは自分の能力不足によるもの」という考え方の違いというのは確かに個々人にあって、おそらく前者寄りの人は次なる成功を求めてさらに能力開発に取り組むのだろうし、後者寄りの人は失敗しないと能力開発に取り組まない。生来の性格の違いによって、こういうところの捉え方とかっていうのも絶対違いはあるはずで。それによって損している部分って言うのは絶対あるはずで、だから性格は変えられるのか、みたいなことを常々思ってきたけれど、どうもそう簡単には変わらないみたいよね。さすがに26年も生きてみると。

どう教育するとそういう人間に育つんだろうね。おそらく私自身も小さい頃からの育てられ方によってこういう性格に育ったのだろうけれど、教育って、その人の人生を左右するくらいに重大な出来事だ。人1人の人生を左右するくらい大切なことだろうから、自分もいずれその側に移る予定なので、たまに子供の育て方について考えることがあるけれど、いまだにどういう態度を取るべきなのか答えは出ない。ってか、そう簡単に答えが出てたまるか、って問題でもあるけど(笑)。私は子供のしたことについてはおおよそすべての責任は親にあると思っていて、だからこそ自分の育てた子供に対して責任が取れるような育て方をしたいな、ということをよく考えるのだけれど*1。それが出来ていれば、いくら自分の子供が何をしたって、私の子供のしたことですから全部私が責任取ります、って言えるわけでしょ。逆に言うとそれが出来ない子供になってほしくはないし、そうなったらきっと凄く後悔すると思う。なんていうか、自分の子供のことを好きになれない、となりたくなくって*2。で、どういう行動を取るか、っていうのの根拠というかおおもとにあるのが上に述べてきたような物事に対する価値観だと思っていて。だから、どういう人間になってもらいたいか、っていうのが前提としてあって、そこからなんだろうけれど。

なんかあまり考えがまとまってないな。ちなみにモチベーションに関してはモノの本もそれこそたくさん出ているけれど、読んでもイマイチピンとこない。読んでもすぐに忘れる。たぶん、この辺から既に価値観の問題が始まっているんだ…。

*1:理想のタイプとして私がよく挙げる「子供を任せられる人」という表現にもこれが大きな1つの要因としてあります

*2:村上春樹の『国境の南、太陽の西』にこれに近い描写がある。有紀子の父が、子供が3人いるけれど平等ではなく好き嫌いがある、みたいな話をしていて、そうならないためには、みたいなことを考えた記憶がある。果たしてそれって無理なことなんだろうか??