上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

仮想対話空間

最近「悩みは人に聴いてもらうことによって半減し、喜びは人に話すことによって倍増するものなのです。」という一文を見た。

その言葉にはある程度納得する部分はある。けれども、常にそれが理想的な形で体現されるほど現実は整ったものではない。だからと言って、誰にでも話せる内容であるわけでもないし、話す内容が適切な相手がいつでもいるわけでもないのだ。適切な内容を伝えることのできる適切な人が常にいるのならばそれはいいけれど、現実には中々簡単に達成されることではない。しばしば書いてきていることではあるけれど、「誰に」というのは、実は相当大切なファクターであると思う。

私の中で、その代りとなる仮想スペースとして、この場が設定されているような気がする。

キーを叩き、文字を書き連ねることによって、頭の中のこんがらがっていた部分が整理され、他者理解を求める一定の欲求が解消される。ただし、それがパスワードのかかった完全非公開の場所でやるのであれば意味がないし、登録されている相手の顔が見える登録制公開の場所であってもそれは達成されない。誰も見ていない場所であればそれはある種の表現欲求のようなものがなくなってしまうし、ただの内省的な記事になるだけで、想定上の仮のものであるとしても他者との関係性を思考の中に全く含まないものになってしまう。一方で、完全に相手の顔が見える場所であれば、逆にそれが明らかになっていることによって、「見える相手」が具体的に想起されてしまい、書ける内容がどんどん限定されてしまう。この人には出来るような話だけれど、この人に出来る手の話ではないし、というような。他者に開かれていてこそすれ、相手の顔が見えない場所、というある意味中途半端な場所であってこそ、この手の内容が書けるのかもしれない。

もちろん、誰もがここを見れるという場所ではあるのだから、実際問題で誰がここを見ているのか、ということは知らない。もちろん見ているけれどそのことを公表していない人はたくさんいるのだろうし、実はその中には私があまり見せたくないような人も含まれているのかもしれない。でも、その可能性があるからこそ、あまりに書けないような内容は書く気にはならないし、自分の思考の流れにもある程度の規制をかけることが出来る。それを守れるのだとしたら、人間の頭は見えないこと、知らないことについて想像できることには限界があるようで、ある種の割り切りが出来る。その結果、「私にとって頭に想定するある特定の(仮想の)理想の人」に対して「核心となる固有名詞や固有表現を抜いた抽象的な形」で「自分が伝えたいと思っていることを表現できる(ように思い込むことのできる)場所」というものが設定される。そこでの表現は、他者表現の問題点をうまいこと抜き出した、誰にとっても得でもないけれど誰にとっても損でもないような、ある意味無責任な、それでいて欲求だけは満たすことのできるある種の捌け口となる。誰にも迷惑をかけることもなく、誰に押し付けることもなく、延々と吐き出されるためだけの場所。

最初に決めたブログの在り方だとか、twitterだとか新しいコミュニケーションツールが出てきたうえでの距離感の捉え方だとか、まとまってない長い文だけど言いたいことはだいたいこんな感じのこの文章だとか、その辺を下地としてこういうことをおそらく考えているのだろうけれど。

本当は、現実世界で全てが事足りてしまい、こんな場所が必要なくなるのであれば、それが一番望ましいことなのかもしれない。昔も書いたとおり、それが一番理想の形だ。けれども、現時点ではそれが達成されていない以上、ここがこうして補完する場所として存在し続けるのである。完全な世界などは存在しないのだから、こうして各種のコミュニケーションツールを使い分け、足りない部分を補いながら生活を進めていくのである。補完する部分への依存が強まってしまい、現実世界での関係を構築するための自助努力を放棄するようになってしまったら、それは問題だけれど。そこには、常に留意しておかなければならない。