上昇気流

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7月24日通り

吉田修一「7月24日通り」(新潮社2004/12/20)を読んだ。

7月24日通り

7月24日通り

この小説、もともと、2004年にJ-Waveでラジオドラマになった作品。10月から毎週ケータイにメール送信されて、そのまとめみたいな感じで、12月24日の22時から24時まで、ラジオドラマとして酒井若菜らのキャストで放送された*1

2004年といえば、もう8年も前のことになる。当時、私は高校3年生だった。もう高校3年生のときにどんな生活を送っていたかなんて、記憶のかなたにところてん式に送り込まれて、断片的な風景の記憶としてしか残っていない。けれど、この物語については、寝静まった冬の、しんと冷えた静かな部屋で、電気をつけてベッドの上に横になって、ラジカセから流れるしっとりとした声にぼんやりと耳を傾けている光景が頭の中に残っている。昨日仕事終わりに立ち寄った図書館で「7月24日通り」というタイトルの本に目を留まらせ、ふと何かを引っ掛からせ、手に取らせたのが、この光景だった。事実関係を後付けるために当時の記録を辿ってみると、私は、21時半まで冬期講習を受け、帰ってきた後そのまま聞いたことになっている。寝っころがりながらぼんやりラジオを聴く、なんて習慣は、当時はあまりなかった。J-WAVEはヘビーリスニングしていたけれど、何かの片手間に(たぶん、勉強の片手間に)、というのが多かったように記憶している。高校3年生の冬といえば、もう受験直前の追い込みの時期だ。しかも12月24日。当時はまだ、この年代の社会人みたいに「特別な日」という現実にそんなに焦らされたり踊らされたりはしていないと思うけれど(笑)、その日は、なんとなく、そういう気分だったのだろう。今でもたまに、同じことをすることがある。

この小説は、毎週、ケータイにメール配信されていた。毎週届く小説を、ケータイの画面で読むのが楽しみだった。このことを思い返した時、最初に思い浮かんだのは、当時2台目として購入し、高3の冬から大学3年の春まで活躍した紫色の携帯電話。けれど、よくよく考えてみると、機種変更をしたのは年明け直前だったはずであることに思い至る。受験の追い込みの時期に、悠長に機種変更をし、ごろごろしながら設定していたのを覚えている(たぶん、幾種にもわたる逃避行動の1つだったのだと思う)。その記憶の通り、記録では携帯電話の機種変更をしたのは12月25日ということになっているから、その記憶は間違っていることになる(記憶というのは、こんなにも曖昧なものなのだと思う。あとから、いくらでも、改変が加えられる。あとから見聞きしたものによって)。

8年前にケータイの画面で読み、ラジオで聴いた小説の内容は、もうほとんど覚えていなかった。断片的に雰囲気が甦ることがあっても、話の流れは追えなかった。結末も、想像していたものとは違った。高校3年生。冬。そのとき、どんなことを考えながら読んでいたのか、どんなことを思いながら聴いていたのかなんて、今となっては思い返すすべもない。けれども、8年前から今に至るまで、多くの経験を積み重ねてきた。失ったものも、手に入れたものもある。置かれている状況も違う。当然、同じ文章から感じるものが、違わないはずがない。

今の私がこの小説を読んで抱いた感傷。きっと、また8年後に同じ本を読んだ時には、また別の感傷に浸ることになるのだろう。8年前の自分が思っていたような将来像に今の自分がなっているかは、わからない。というより、当時はそんな20代後半の姿について、イメージなんて描いていなかったのだと思う。自分のことで精いっぱいで、目の前のことをこなすだけで必死だったし、目の前に広がる選択肢のどれを選択するかによって、それこそ将来の姿なんていくらでも変わる可能性が横たわっていた。社会人がどんな生活をしているかなんて、結婚して子供が生まれそうである兄を見てすら、現実的なイメージなんて描けなかったし、描こうともしていなかったはずだ。18歳なんて、おそらく、そんな年齢だ。

26歳になった今だって、将来像はまだ描けない。なんとなく、こんな風になりたい、なんてものはあるけれど、それこそ明日明後日にもその想定が打ち砕かれる事態に陥る可能性はどこにだってある。「こういう風になっていたら、こうなる」みたいな道筋を想像していくのは可能だ。そういう道筋は、いくらかは用意している。希望的な観測としても、悲観的な観測としても。けれども、良くも悪くも、その通りになる保証はどこにもない。過去についてはいくらでもなんとでも言えるけれど、未来については何も確かなことは言えない。ただ、後ろに置きざりにしてきた選択の結果今があるのであり、今目の前でしようとしている選択肢の結果未来があるというだけの話。だから、目の前の選択肢に後悔のないよう必死に取り組むしかないのである。その先にある選択肢の連なりを選んでいくために。けれども。

「7月24日通り」の最後。主人公は、自分で考えても間違っていると思う選択肢を敢えて採る。必ず後悔することがわかっている選択肢を敢えて採る。そうすることで、「ずっと、間違えることをするのが怖くて、いつも動き出せないでいる」自分に決別をつけるために。選択には、そういう種類の選択も存在する。

18歳の私がした選択の結果がここにある。そして、今の私の選択は、今後の人生を規定していく。また時が経ち、いつか振り返った時に、果たして何を思うのでしょうか。

*1:後々映画化もされたらしいが、そちらは見ていない。テキストベースの物語の映像化は、頭の中で構築された自分なりのイメージを崩されたくないから、あまり見ないようにしている。それだけ映像のインパクトは強く、それまで想像力で築き上げられたものなど一瞬で破壊し上書きするくらいの力は持っていると思っている。そしてなんとなく、映像によりもたらされたものよりは、想像力で作り上げたもののほうを大事にしたいという気持ちがある。