上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

ドタキャンとか

何か用事ごとがあるとき、必要なものであるとか、時間的なものであるとか、それなりに頭の中で計画を立て、イメージを描いていくのだが、直前の変更でそれが崩されるのが嫌いだ。

一応、ある程度の柔軟性、というか、このくらいまでの変更の余地はあるだろう、というところも含めて計画を頭に描く。ある程度の振れ幅も範疇に入れて、複数の可能性を考えながら計画を立てる。けれども、描いていた振れ幅を超えた想定外のところで変更が起こると、なんとなく不快感を感じる。前もって変更が起こる可能性を知らされているのならば良い。それは、それを想定に含めて考えられるから。時間的に余裕のあるところで変更を知らされるのも良い。そこから新たに計画を練り直す余裕があるから。あるいは、やむを得ない事情であったり、全力を尽くした結果仕方なく変更に至ったのであれば良い。それは、本人なりに最善を尽くした仕方のないことだから。けれども、大した理由もなく変更通知が遅れたりだとか、変わる可能性が前もってわかっていたのに直前になって急に変更を知らせてきたりとか、そういうのが嫌いなんだと思う。いわゆる、ドタキャン的な。もう少し、やりようがあったでしょう、っていう。こっちにもそれ相応の都合があるし、もう少し早く決まっていればこちらとしても別の計画を練ることが出来たんですよ、って思う。言わないけど。要するに、適切な対応を取ってくれたならばこちらのほうで別の選択肢を取ることが出来たのに、適切な対応が取られなかったせいでそれが出来なかった、ということが嫌なのだと思う。

得てして、そういうことをする人って、だいたい決まっている。そういう人に対する計画だとか約束の確度って、どうしても低くなってしまう。疑念が差し挟まってしまう。それは仕方のないことなのだろうけれど、私自身はそう思われたくない。そういうところから、信頼関係が生まれてくるものだと私個人は考えているから。前もって変更がある可能性を言っておくとか、ある程度の余裕を持たせて変更の連絡を入れるようにするとか、そういうちょっとしたことで、それって回避することが出来ると思うのだけれど。相手の都合を考える、っていうか。そういうところ。

人によってその考え方とか確度とかは違うのだろうし、たぶん私は極端よりな人間だから、人に私と同じ考え方を押し付けることはしない。でも、「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」って、結局こういうことだと思うんだけどな。