上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

主体と客体の逆転

「いいね!」ばかりに触れているうちに、ふと「(どうでも)いいね!」ボタンがもしあったとしたら…と思ってしまって、検索してみたら、似たようなものがやっぱりあった。

https://chrome.google.com/webstore/detail/alnhcmkaohpdcccnpkneellicgekdhcp?hl=ja

やっぱ結局こういうこと考える人っているものなのね。でも結局、あっても押さないんだろうな。思ってたとしても、ひとにそんなこと言うことなんてできないもの。くわばらくわばら。

ちょっと話の筋は変わるのかもしれないけれど、SNSであるとかブログであるとかって、こうやって自分の中のある面を他者に対して顕示する性質を多分に持つところだと思っているけれど(というか、それ以外に何の意味があるのだろう)、そんなことばっかり繰り返しているうちに、自己顕示欲がだんだん麻痺、というか、捉えられなくなってきたようです。私は性格的に、おそらくこういう何かの行為をするときに、本能のままにそういう行為をすることっていうのが出来るかというとそうではなくって、「そういう行為をしている自分」というのをいったん外に出して、それを客観的に眺めてみて「私」の行動にふさわしいかふさわしくないかを判断し、その上で行動をしている気がする。こうしたSNSとかブログっていうのはある種、そういう自分の中で「他者に表出できる」という判断が下されたもののショーケースみたいなところだと思うけれど、そこに陳列されている、いったい自分の中の他人に認めてもらいたい部分、他人の中のイメージとして作りたい部分っていうのは私にとってのなんなのだ。もはやそれを、無意識にやっているようになっているのではないか。他者にこう見られたい自分、が、自分のあるべき姿、になっていて、実際にその通りに生きるようになってしまっているのではないか。それは本当に自分にふさわしい、無理せずに等身大の自分でいられるものなのか。そもそも等身大の自分てなんなのか。そんなものはあるのか。他者から見られている自分が自分なのだとしたら、等身大の自分なんてものはない。他者の中にある自分こそが、自分なのだ。そのつぎはぎがある種の「私」という姿をとって、私の中に存在しているように錯覚するにすぎない。人前で笑顔作ってたらその笑顔がだんだん剥がれなくなってきて、家に帰ってもWEB上で笑顔ばっか作ってたらそれすら剥がれなくなってきて、だんだんそれがほんものなんじゃないかと思えてきてしまったり、むしろそれに疑いを抱くことすらなくなってきてしまっていたり。そんな状況なんじゃないかと思って。

他の人との深い交流を避け、表層的な付き合いだけを長いことしていると、この傾向が深くなってくるのかもしれない。だって、ひとのきれいな面しか見ないんだもの。それこそ、こういうSNS上でのやりとりみたいに。こないだ、長いこと一緒にいる同期から「本当の姿を見せてくれない、本当に思っていることを言ってくれていないんじゃないかと思っている」と言われたけれど、その通りかもしれない。むしろ、その「本当のこと」っていうのすらないのかもしれない。あなたに見せているその姿こそが本当の姿であって、その裏にある本当の私なんてものはないのかもしれない。表層のつなぎ合わせ。空虚な内面。あるいは、それを引きはがしたところで、とても面と向かっては言えないような、ものすごく黒々としたどろどろした何かが流れ出てくるのかもしれない。社会関係を円滑に行う上で封じ込めている何か。「どうでもいいね!」とか人に軽々しく言っちゃうような何か。

こないだ「キャラづくりがブレている」というありがたいお言葉を戴いた先輩から、有吉ばりに適切なキャッチフレーズを探してもらったところ、「キャラ界のキムタク、略してキャラタク」であるとか、もしくはそういうキャラづくりのブレに対するシニカルな含意と期待を込めて「チャラぞこない」がふさわしいのではないか、というお言葉を戴いた。他者の中にあるイメージなんて、私の表を漂っているなにがしかに過ぎないけれど、もはやそれが引きはがしがたい何者かになっていて、それが私なのだとしたら、もうそれでいいんじゃないのだろうか。そういうものとして。

そうして今日も私は、「私がいいね!と言うであろう」と思われる事柄に、「いいね!」を押し続けるのです。イメージ上のきれいな私が行うであろう事柄を写真にとってアップして、それに対して「いいね!」をもらい続けるのです。もしここにも「いいね!」って言われたら、それもやっぱり私の中のなにがしかのイメージを形成するんでしょうか。しているんでしょうか。