上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

可能性

誕生日の日に、大学時代と今とでは世の中の見え方が随分違うものだなぁ、となんとなく思って、ふと引用しようとしていた村上春樹の一節は以下のようなものだった。

「ぼくはまだ若かったから、その手のカラフルな事件は人生の中でしばしば起こるものなのだろうと思った。そうではないことに気づいたのは、もっとあとになってからだ。」(村上春樹スプートニクの恋人」)

若い頃、というのは、可能性というのが歳を経るごとに狭まってくるものだということを知らない。自分より年上の、人生経験を余計に重ねている人から何かの拍子に言われたり、そのような人たちの書いた小説やエッセイに触れたりして、おおよそそうなるであろう、ということを論理的思考の帰結として推測することは可能なのだろうけれど、大抵はその事実を大した出来事として受け入れない。推測することというのは、実感ないしある種の危機感を伴ったものとして肌で感じるものとは、極めて種類の違うものなのである(ということに、歳を取ってから次第に気がついてくる)。

人生は、枝を広げた木を幹から末節に向けて辿るように、数々の選択肢を経ながら進んでいく。その流れは不可逆なものであり、一度進んでしまった枝から、元の分岐点に戻ることは出来ない。最初は無数にある(ように見えるだけで、実際のところはこの世に生を受けた時点で既にある程度限定されているものではあるのだけれど)選択肢は、次第に選べる数が限られ、且つ、種類も似たようなものに限定されてくる。今更まっさらな道を選びなおす、という選択肢はあり得ない。それらしきことは出来るのだろうけれど、新しい道を選んだつもりでも、それは結局近似した形にすぎず、結局は何かしらの形で、過去が現在を規定している。

時々、どうしようもないところで過去に現在が縛り付けられていることがわかり、幻滅する。全く新しい道を開拓し、進もうとしても、選んだその先で、過去の自分が至るところに身を潜めて待ち伏せている。うまくいっているように見えても、調子に乗り出した時に、突如として目の前に牙を剥いて立ちはだかる。「逃げきることは出来ないのだよ」という笑みを浮かべながら。その道を突き通そうとするならば、次から次へと顔を出す過去の悪魔を、1つ1つ、根気よく何度も潰していかねばならない。そしてそれは得てして、とても困難な作業である。結局、そんなことを繰り返すうちに、だんだんと新しい道を身に付けようという試みが、馬鹿げた試みであるように思えてくる。結局、過去に縛り付けられ、それを背負って生きていくしかないのだと。そういう風にして、選択肢はどんどんと、限定されていく。

何かを選択するということは、その先に横たわる可能性も全て含めて選択をする、ということは避けられない現実として存在する。自らにふさわしいものなのか否かに関わらず、ある時点で、先に広がる無限の可能性を大幅に限定し、先に広がる一部の選択肢を全て背負い込んで選択しなければならない。限られた機会を逃さないように、その先で感じるであろう「実感」にまで推測を巡らし、選択肢を選びたいものだけれど、残念ながらそれは不可能だ。将来のことなどは誰にもわからない(そういう意味で、「人間万事塞翁が馬」という言葉はある種の諦念と希望を持って受け入れざるを得ない言葉だと思う)。けれど、だからと言っていつまでも選択を先延ばしにしていて良いわけではなく、次第に選択肢が狭まってくる、ということを考慮に入れながら、二の足を踏むことなく、時には妥協も受け入れながら「えいやっ」と、ある程度の決断はしていかなければならない。今はまだ、年上の方々からは「若いね」って、って言ってもらえるけれど、そう言ってもらえなくなるのも確実に近い将来の話だ。さらには、今はまだ所属している社会で下っ端の部類に属するからそう扱われているだけで、既に私たちが置き去りにしてきた大学生や高校生から見たら、立派なおっさんに近づいている。いつまでも、可能性がたくさんあると思っていたら、大間違いで、気がつくと身の回りには選べるものが何も転がっていない。ただただ見渡す限りの荒野で、空っぽの手で呆然と立ち尽くすだけ。そういう将来にならないためにも、限られた可能性を適切に見極めていかなければならない。

そうそういつまでも、夢ばっか見てんじゃないよ。