上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

報い

もっともっと報われて然るべき人が世の中にはたくさんいる、ということを強く思っている。

世の中的に「オイシイ」思いをするのは、世の中の真ん中らへんの欲求を満たしている人だ。ニーズをうまく読み取れる人だ。よく「好きな人」の特徴の一つとして「やさしい人」が挙げられるけど、そんな感じのやつ。「やさしい人」として挙げられるような人って、実は、やさしさ要素をおいしいポイントでさらっとそつなくこなす人、っていう感じのニュアンスが強いように思う。相手の要求に応じて求められているものをさらっとうまく演出して出せるような、その「そつなさ要素」がすごく大事なのだ、おそらく。俺が本気でこの人優しい、って思う人は、大抵その優しさが評価されてない。なぜなら、確かに優しさは図抜けてたりするけれど、その表出の仕方が世の中一般で要求されているいわゆる「やさしい」のツボを外していたりとか、あるいは、その優しさの発揮される場所が全然異なっているから。一般的に「いい人」で終わってしまうような人、とかね。本当に優しい人って、たぶん全然モテないんだ。おそらく。

そんな目で周りを見渡してみると、本来ならもっともっと評価されて然るべき能力を持ち合わせているにも関わらず、その能力に見合った報いが得られていない人がすごく多いように思う。それは、社会的な立場であったり、身の回りの評価であったり、人間関係であったり、っていうところ、あらゆるところで。そういう人って、きっと、すごく、不器用なんだ。ある1点は図抜けてたりするんだけど、他の面でばらつきがあったり、必要な要素を満たしていなかったりするから、結局は選ばれることがない。あるいは、ある種、周りに合わせようとしていない、っていうのもあるのかもしれない。自分なりのやり方を通すだけで、それが周りにどう受容されるかまでは考えが至っていない、のかもしれない。でも、さらっといろんなことそつなくバランスよく要領よくこなしてへらへらしてる人より、一途に、真面目に物事に取り組むことが出来る人の方が、個人的にはずっと尊敬に値するし、信頼に値するように思っている。身の回りにも、そういう人はたくさんいる。「あぁ、俺はこの人には絶対にかなわねえな」って思う人がたくさんいる。けれども、そういう人が「俺から見てその人にふさわしい」と思われる評価を得ていないのである。もっともっと評価されて然るべきなのに。

世の中の仕組みがそうなってるんだから仕方ない。不器用な人は不器用なりに苦しんで生きるしかない。それが、この世の中だ。結局は、世の中にはニーズがあり、それをうまく読み取って、そのニーズに合うようなものを提供していくのがこの世の中で評価を得ていくための仕組みである。少なからず器用な人は、それが出来る。自分自身、要領も悪い方ではないのだろうし、その世の中に何とか適応するように媚を売って、うまいこと取り繕って、それなりにへらへらしながら生きている。けれど、時々、自分よりもっともっと輝いた能力を持っているのに、不器用であるがゆえにそれが正当に評価されていない人を見て、凄く申し訳なくなる。悲しくなる。それが、世の中のおおよそのところで要求されているものとは、ちょっと形を違えているがために、武器が武器で為り得なくなっているのである。表出の仕方が違うんだよ、売り込み方がそこは違うんだよ、と思っても、それを修正できないからこそ、それがその人にとってのウィークポイントになってしまうことさえある。

そういう人には、そういう人が持っているなりの強さ、っていうのは絶対にあると思うんだけど。でも、それがニッチすぎるからこそ、それがばしっと希求されるところにうまくはまったときには絶大な力を発揮するけれど、世の中の大半のところでは全然発揮されずに終わってしまう。多分、ストライクゾーンが狭すぎるんだ。世の中の全ての人がそういうストライクゾーンにはまることが出来ればいいけれど、世の中そううまくはいっていない。それも、この世の中では「仕方がない」のは理解できるんだけど、なんか、悲しいことよね。