上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

永遠

GW。1日だけ得た休みで帰省し、毎年恒例の、親戚一同が会したバーベキューを終え、帰りの新幹線の中。

久々に、全員が揃った。祖母、両親、長兄の一家、次兄、母の妹一家、従姉の旦那。総勢14名。長兄の子供は、2人とも達者に喋るようになった。従姉にも今年子供が生まれる予定で、孫の世代が着々と存在感を増している。輪の中心は、完全に彼らの世代へと移った。子供の世代(我々の世代)は皆、社会人になった。私も休みは不規則だし、従姉弟も忙しくなり、中々皆の予定が合うことも少なくなった。そんな中、久々の、全員集合。

久々に全員集合したため、集合写真でも撮ろうよ、という私の提案は、喧騒の中に忘れ去られた。また集まればいいよ。そんな声が聞こえてきた。

いつまでもこの平和が続くことがないのは、どこかでわかっている。その時は、いつの日か、必ず訪れる。その時はまだ想像できない。私には、物心ついた時から、親族の弔事の記憶はない。母方の祖母以外の祖父母は、私に物心がつく前に、既に他界していた。それ以来、身近な人と死別したことがない。けれども、私の父親ももう若くはない。実家に帰る度に、父の動作の1つ1つに、衰えを感じる。父親に限った話ではない。何時なんどき、この平和は崩れてもおかしくはないのだ。それは、明日にでも。そんな不安は、実は日々の生活の裏側にぴたりと貼り付いている。普段は気がつかないふりをしながら。

そんな不安は、一抹の曇りもない平和に接する度に、ふとした間隙を突いて押し寄せてくる。灰色の日常に紛れ込んでいた不安が、強調される。いつしか訪れる終わり。永遠というものはない。孫世代の無邪気な笑顔には、これから長い人生の中で直面するであろう艱難辛苦への曇りは一抹も感じられない。そんな無邪気さに触れる度、その裏に広がっている無限の「対極の可能性」が、私の胸に影をちらつかせて、軽い目眩がする。

この不安は、生きている限り逃れることが出来ないものだ。だとすれば、これからの私の取るべき道は、守っていく側、作り出していく側への移行しかない。何も考えず無邪気に寝ていた後部座席から、いつしか運転席へと移行すること。そうして世代交替は為されていく。永劫続く平和がない一方には、新しく作り出される平和の形もある。今あるものが完璧に見えるほど、それは手放したくないものとなる。それを失う恐怖は募る。しかし、そこから逃れることが出来ないのであれば、新しい可能性を自らの手で作り上げていくしかない。信頼出来る相手と。そして、いつの日か、自分がそちらのサイドに立っていることに気付くまで。

理解はしているけれども、まだ今の私には、その姿は見えない。25歳、そろそろ色々な物事が現実的に、具体的に見えて来なければならない時期だけれども、今ある現実と、あらゆる可能性をどう客観的に評価してみても、私にはもう少し時間が必要みたいだ。焦りと不安が、身を焦がす。

そんな、いつもの帰り道。いつどこにでも、完全な世界なんてない、というのは、わかっているはずなのに。ね。