上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

実感

今小説を読み終わって、ふと大きな事実に気が付いた気がした。

私には、「死」の実感がない、のかもしれない。

物心ついた時から、実に20年近い時が経っているけれど、私の身の回りにはあまり亡くなった方がいない。祖父母は健在である1人を除いて私の物心のつく前に亡くなっていたし、私が所属していたコミュニティにも、あまりそのようなことはなかった。弔事に参列した記憶というのは、片手の指で数えられるくらいしかない、のではないだろうか。

これは幸いなことなのかもしれないが、あくまで、私の中にある「死」の実感というのは、限られた経験の中や、書かれたものの中から想像で補っているものに過ぎない。

ここから先、もし、身近に「死」が訪れた時、価値観ががらっと覆される可能性はある。今日私が気が付いたこの事実は、今の私の人格形成に、少なからずの影響を与えているのかもしれない。卑近なところだけれど小説を読んだ時のリアリティとかも含めて、物の見方がすべて変わってしまうのではないだろうか。「死」をテーマに扱った小説ってどうも苦手なのだけれど、逆にそれは自分にリアリティがないからなのかもしれない、とふと思った。

おそらく、それくらいのインパクトを持ったことであるのは間違いないのだろうけれど。実感がないだけに、想像の域を出ない。



生命保険の話を聞いたりだとか、親の体の不調の話を聞いていても、どことなく遠い世界のことのように考えてしまっている節があって、そのときはそれなりに真剣に考えるのだけれど、結局そのとき限りになってしまっているのかもしれない、と思った。本当にその時が来るまで、おそらくリアリティを持って考えることはないのかもしれない。

親譲りの自分の体のウィークポイントみたいなものも、この年になるとそれなりには自覚してきて、それなりに自分の体についても考えてみたりもするけれど、それもまだ現実味のない話として、結局あまり気を使わずに普段の生活を送ってしまっているものだ。おそらく、年を取ってくると同じような症状に悩まされるであろうことは目に見えており、そのために今節制すればある程度は軽減も出来るのだろうけれど、特にそれを実行に移しているわけではない。

ビスマルクは「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言ったけれど、私は、経験からしか学びえないことというのもあると思う。確かに多くのことは想像力でカバーできるけれど、本当に経験しないとわからない痛み、喜びは確かに現存するのだと思う。



ぼんやりと、そんなことを思った日曜の夜。



昨日今日とどうも仕事中から流れがよくない。ツイてない出来事が多い。まぁ、そういうときは必ずあるのであって、仕方ないんだけど。どうこうあがいたって降ってくるもんは降ってくるんだし、避けようがないものはそれなりに流していくしかない。こんなときは自分でもどうこうしようはないし、小説でも持って布団に入って、自分のペースでさっさと寝るに限る。寝よ。