上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

自己完結

仕事をしているとしばしば常識の範囲外と思われるような意見なり主張なりに遭遇する。

「常識」がどこにあるのかはわからないけれど、ともかくその「常識」からどう考えても外れていると思うことを平気で主張してきたりする。自分の「常識」が間違っているのかもしれないけれど。その可能性もゼロではないし、ここで腹を立てても仕方がないので、「そういう意見もある」として感情を差し挟まずに第3者的な処理をする。客観的で無機質なそこにあった「出来事」としてしまう。今日も1日の終わりにとても不機嫌な出来事があったけれど、イチイチ構ってもいられないので、とりあえず一通り手を打ち、あとで一通り腹を立てた後「まぁ、そういうこともあるか」といって諦めた。考えるだけエネルギーの無駄である。怒りというのは非常に体力を使う。神経を擦り減らす。

もう飽きるほど慣れたいつもの展開。別にもやもやした気分なりなんなりがあっても、寝て起きれば忘れると思うと馬鹿馬鹿しくなる。誰かに発散するとか、そういう考えももはや浮かばない。愚痴を聞くほうもエネルギーの無駄だし、別に自分の中で割りきりをつければいいだけの話である。ほっといたら忘れるんだからそれでいいじゃん。考えるだけ無駄。寮の自室に帰ってきた時点でもはやどうでもよくなる。どうでもよくする。

自己完結。良くも悪くも。そういう生活をしばらく続けていたら、そういう頭になってしまったのかもしれない。誰にも迷惑をかけないし、それが良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、その方が生きやすいのは確かだ。閉じている、と言われるかもしれない。けれども仕方がないじゃないか。そうやって生きてきてしまったのだから。

最近受験のCMで

「あきらめの悪い人になれ。自分を曲げない人になれ。まわりを驚かせる人になれ。」

っていうのがあったけれど、諦めが良いこと、自分が曲げられることにもそれなりの価値はある。ポリシーがないとかなんだとかいう話もあるかもしれないけれど、そうなってしまったものは仕方がないじゃない。その方が自分にとって生きやすいのは確かだし。はたから見たら自分の意見もない軟弱で脆弱で卑屈な人間に見えるのかもしれないけれど。

とても卑屈な考え方なのは自分でも認めている。これでいいのかと思うときもある。けれども、仕方がないのだと思うし、こういう生き方もあってもいいと思う。たまーに、そんな自分がとても寂しくなるし、どうしようもなく嫌になるけど。いつからこうなったのかは、知らない。