上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

関数的な想像

私は何か新たな環境に対して判断をするときに、「その先に納得できる未来がある程度描けるか」をある程度根拠にしています。その際に想像している「未来」というのは、具体的に形象を作るものではなく、ある関数のようなものではないか、ということに最近気がつきました。

新しい環境に対処するとき、そこには常に判断が付き纏います。この環境でいいのか、という判断。人との関係性なんていうものも、ある種の環境に含まれますね。新たな人と新たな関係を築くとき、その関係性をある程度見繕って、どれくらいの深さで接していくか、ということを無意識に設定している(たぶん)。

しばしば、新しい環境に飛び込んだときに、「入る前に想像していたことと違うことはありますか??」と聞かれます。特に入社後の面談などで、そう聞かれることが多かった。けれど、そこで私はうまく答えることが出来ないのです。その場その場では適当にうまく流しながら、それが、どうして答えられないんだろう、って思っていたのだけれど、最近やっと、どうしてかその理由がわかってきました。

私は新しい環境に入るとき、そこに対して前もって幅を持たせて未来を見ているからなのだと思います。「何が起こるかわからないけれど、この程度以上のことだったらまぁいいだろう」というような想定の元に私は新しい環境に飛び込んでいきます。下限だけ設定しておいて、それさえ満たしていれば何が起ころうとまぁ納得できるだろう、という感じ。最悪のシナリオの想定。その際に判断の際に根拠とするのは、新しい環境で起こりうる事象がどのレベルで起こり得るか、というところです。

ここで、環境とか人とかっていうのをある関数に例えてみると、わかりやすいのだと思う。関数というのは、何か数値を与えたときには一定の結果が出てくるものだと言えます。これを、環境にあてはめてみる。環境というのも、ある種、何か自分のアクションに対して、一定のリアクションが還ってくるものであるといえると思います。自分のアクションに限らず、世の中全てのアクションに対して、だけれど。

ここで、「入る前に想像していたこと」を聞く質問というのは、この数値を入れた後出てきた計算結果=具体的な数値、に対する印象を聞いていることが多いと思うのだけれど、私は判断の際にこの関数自体を見るようにしているから、答えられないのだと思う。

私がある環境を見るとき、その関数が取りうる値であれば、「何かが起こりうる」という可能性の中で起こりうるあらゆることが全て、想定した未来の中に含まれることになります。私が想定する未来というのは、この関数であり、グラフを書いたときにその関数がとりうる値の領域全部を予測の範囲に含める、ということです。だから、これまで抱いた印象がその領域内だったら確かに印象通りだといえるし、領域外のことが起こっていたならば、印象と違う部分がありました、という答えになるのかもしれない。けれど、これまで起こったことは本当に少ないサンプル数の中でたまたま領域内に収まっていただけかもしれないし、そもそも関数だけを想像しているのに、今まで出てきた有限な解から、関数自体が正しかったのかを帰納的に答えることは出来ないのです。私の描いたグラフが合っていたということはその時点では言えない*1

これは、理想を追い求めるのと似ているけれど、理想を追い求める、とは違う気もします。そこには、妥協が含まれているからです。理想を求める行為が上を目指す行為であるならば、私がしていることは下に行かないような行為。例え理想と異なっていたとしても、この程度までなら妥協できるだろうな、という幅を持った未来を想定している。言うなれば、妥協できるであろうレベルの下限を予測して、それ以上であると想定できるならば、それをしてみても良いかな、と考えるのです(そう考えると、先の「入る前に想像していたことと違うことはありますか??」という問いに対する答えはその意味ではノー、ということになるのだろうか。「特に想像していたのと変わりはありません、何が起こるかわからない、という想像の元に入ってきていますから」みたいな。割とそういう感じの受け答えをしていると思うけれど笑)。打算的、と思われるかもしれないけれど、その通りかもしれない。

そして、基本的に(例外もあるけれど)、私の場合はその下限を低めにすることが多いので、前述の問いに窮することが多いのかもしれません。基本的に、私は未来を想像するとき、下限「のみ」をまず設定するのだけれど、その下限を低めに設定しておけば、基本的にあまり動じないで済む、と思っています。なにか驚くような出来事が起こったときにも、「ああ、そんなもんだな」と思うことが出来る。そして、下限以上のものを先に見てしまう、言うなればそこに対して大きな期待を抱いてしまうと、期待との相違が大きく見えてしまい、「こんなはずではなかった」と思うことになる。そこで嫌な思いを感じなくて済むように、下限を低めに設定するのです。期待を持たなければ、失望することもない。これを先の関数の例に言い換えると、グラフの取りうる値を広めに予測する、ということがいえるのだと思います。現実の関数がある一定の領域を取るとして、それ以上の大きさの領域を想定しておけば、関数が取りうる値は想定した領域の中に含まれることになる。

もっとも、妥協できないと考えることに対しては、このグラフの領域の想定がかなり狭くなっているのだと思いますが(笑)。理想を見ないからといって何をも受け入れるのではなく、妥協できる妥協できないはまた別の話ですからね…。

この考え方が、現状に満足しやすい体質を生んでいるのは確かだと思います。妥協レベルを最初に想定してから新たな環境に飛び込むため、それさえ達成されていれば満足している、といえる。このレベルならば失敗しない。そういうボーダーラインを常に想定しながら、生きているのだと思います。そして、この生き方は成長しない、とも言える。成長の要因である失敗を避けるような生き方であるし、ボーダーを下げるとそれを越えたところに位置するものは全て想定の範囲になってしまい、「ああ、そんなもんだろう」と思ってしまうのです。そこに対して改善をしようという思いが出てこない。イレギュラーな出来事も、経験を重ねるに連れ想定の範囲内になってきますからね。領域は、ある意味広がり続けるともいえるのかもしれない。

…時間を置いてみたらイマイチほんとにそうなのかよって思うところばっかりだけれど、ある一部分はそういう部分もあるんでしょう、きっと(笑)。まぁ、一長一短ではありますけれど、自分にとって生きやすい生き方を追求してきた結果がこうなってしまったのだから、仕方がないのかな、とも思います。あぁ、わかりやすいように具体例を挙げて説明してみたいけれど、具体例ってものは、いつだって生々しすぎるんだ(笑)。

*1:多分、一生言えない。言えるのは棺桶に足突っ込むときだけ。