上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「自分の正しさ」について最近実感も交えて思うこと

世の中、何の留保もなく「自分が正しい」と思っている人が結構いるものですね。

何かトラブルなりがあった際に、自分が間違っているのではないか、という可能性も含め、色々と検討を重ねた結果、やっぱり自分は正しい、間違っているのは他人だ、という結論に至っている人はまだ信頼できます。それは正当なプロセスを経ていると認識する。仮にその結果自分が正しいと思っていたことが間違っていたとしても、その人には成長の余地があるし、それなりの理由付けがあるから。話し合いの余地があります。

しかし、世の中には、自分が間違っているのではないか、という検討をすることなく、「自分=正しい、間違っているのは他人」と結論付ける人が存在しています。存在しているであろうことはそれなりに想定してはいましたが、実際に仕事上色々な人と接していると、その割合は結構なものであるように思えてしまいます。まぁ、トラブルを起こすのはだいたいそのような人であり、そしてそのような人が印象に強く残るために、割合が多いように思えてしまう部分もあるのでしょうけれども。目立ちますからね。こういう人にはいくら説明をしようとしても無駄だったりします。なんせ、間違っているのは説明をしようとしている私たちであり、いくら言ってもそれは間違ったことなわけですから。

この「自分は間違っているのではないか」という留保の有無に、私は人付き合いをする上で結構な重みを置いているような気がします。人付き合いをする際には「信頼」が重要になってくるけれども、この「信頼」の根拠になる部分は、、おそらくここにある。「自分を疑う」という姿勢を持っている人には得てして好感を抱くような気がします。信頼に足る人として。けれども、根拠のない自信に溢れている、もしくは、自分を疑う試みをしない人は、得てして苦手意識を持ってしまうのかもしれません。昔も、似たようなことを少し書いたことがありましたけれども。

得てしてこういう人って、上から目線だったり、いかにも「やり手」なオーラを出そうとしていますから(本当にやり手かどうかは別問題として)、その辺が苦手だったりするのかもしれないですけれどもね。

実際問題、世の中にいる人における、こうした「自分が正しいと思っている人」の割合は、そこまで多くはないものだと信じたいけれど、どうなんでしょうね。少なくともこれまでの人生の中では、私の周りにいた人たちにはこのような人はあまりいなかったようにも感じるけれど、それは少数派だったのだろうか。

まぁ、それはそれとして、私は私なりに自らが正しいと思う道を進んで行こうと思います。もちろん、常に疑う姿勢を忘れてはいけませんけれども。言っている自分はどうなんだ、ってところは結構ありますからね…。私自身にも、絶対そういうところはあるのでしょうから…。