上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

遠く離れた場所で

多分、こんな1週間を過ごすことは、これから先、あまりないのかもしれない。

煩わしいことは全て忘れ去って。やりたいことを、やりたいだけやって。やらねばならないことは、何もなくって。頭の中が空っぽな状態で、ただただ、色々な物事を見聞できるというのは、とても恵まれていることだ。何か他にやるべきことがあると、そればかりが気になってしまって、純粋に物事を楽しめなくなる。日常は、頭の中に混線を引き起こす様々なしがらみで溢れている。普段、様々なことを考えすぎなのだ。考えなければ良いのかもしれない。しかし、それらは、そこにいるだけで、俺の頭の中に、勝手に入り込んでくる。次から次へとやってきては、土足で踏み荒らしていく。そこにあるだけで。そこにいるだけで。自分から何もしなくても、周りの状況が、俺にそうさせるよう仕向けるのだ*1。これを防ぐことは、日常の中にあっては難しい。場所を変え、長い間、そこを離れることによって、それらのしがらみは次第に忘れられていく。それらのものから、「距離を置くこと」が大切なのだ。物理的にも、観念的にも。最初の1日はまだ「日常を引きずった非日常」だけれど、時を重ねるにつれ、次第に非日常の純度は高くなっていく。様々な混線から解き放たれ、自由なモノの見方が出来るようになり、狭く、凝り固まっていた自分の視点が、解きほぐされていく。昨年のこの旅が1つのきっかけになった1つの理由は、おそらくここにあるのだろう。今は、おそらく、本当に恵まれた状況下にいるのだ*2

しかし、日常があるからこそ、非日常が活きる。こういう生活をしていると、いつか、日常のしがらみが恋しいと思えるときは来るのだ。人間は、狭間に生きる生き物だ。純粋な平和などはない。純粋な幸せなどはない。対局があって、それを知っているからこそ、ありがたみを感じる*3。そう考えると、日頃、色々と自分の置かれた状況に対して不平を言うことは、とても身勝手な行為と言うことも出来る*4。果たしてこれは、正しい論理なのだろうか。まだ、自分で自分を納得させようとしているにすぎないのではないか、という思いは抜けない。たぶん、それも、狭間だからなのだろうけれど。この間の知足の問題も、多分、ここに解がある。そして、我々が狭間に生きる生き物だからこそ、バランスが求められると感じてしまうのかもしれない。

もうしばらく、日常から離れた場所で、このさまよいを続ける。遠く、遠く、離れた場所で。果たして今、俺は、どこにいるのだろう。物理的にも、観念的にも。

*1:おそらくそれは、性格のせいだ。もはや今更、変えることは難しい。これを「心配性」と呼んで良いのかどうかは、わからないが。しかし、普段はこの性格を忌み嫌って、さも排斥すべき諸悪の根源のように扱っているけれど、実際のところ、様々な問題のスケープゴート的に扱おうとしている感は否めない。実際、この性格で得をしていることだって確実にあるのだ。そして、俺はそのことを知っている。だから、俺は未だにこの性格を変えられずにいるのだ。たぶん。

*2:最近、こうやって自分を納得させようとしていることが多い笑。

*3:コミック版のナウシカ…全7巻のやつ。アニメとは根本的に話が異なる…が言いたいことも多分それだと思っているのだけれど。

*4:なんとなく脱構築に似ている?