上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

生産性ということ

2週間、という時間単位で生活を区切ってみたときに、その枠内で自分が今している活動の生産性は実はとても低いものだ、と感じた。

図書館で借りてきた本の返却期限は、延長手続きをしなければ通常は2週間である。ところが、本を5冊借りてきたとして、その中で一体どれだけの部分が実になっているのかということをふと考えたときに、自分に幻滅した。それくらいの本を5冊読めるだけの時間は2週間もあればゆうに捻出できるはずなのに、それすらも出来ていないのか、と。

理論的なことを述べている本は、読むのに結構な力を消費する。また、ある程度まとまった時間をかけて読まないと、内容が頭に入ってこない。電車の時間くらいの細切れの時間だと、連関が見えてくる前に切らざるを得なくなってしまうから、1冊の本の体系的な理解はしづらいのだと思う。ということで、それらの本を読むためのある程度まとまった時間を、一体どのくらい捻出出来ているか、ということを考えてみると、自分が無駄に過ごしている時間の多さが浮き彫りになってくるのだ。

確かに5冊全てをものにするのは相当困難な事柄であることは認める。能力的な問題もある。ただ、うまく時間をやりくりし、「無駄に過ごした」時間を全てそこに注ぎ込めていたと仮定するならば、少なくとも現状よりは、相当多くのことを実に出来ているのだと思う。理論的な本なんてものは、意識的に読もうと思わなければ部屋の片隅に置き忘れられて、あっという間に2週間が経過してしまう。その間に何の生産的な活動が出来ているというのか。例えば本を読まなかった代わりに自己分析が進みました、とか、そういう代替物によって生産性が生まれ、先に進んでいるのならばまだ良い。そのような代替的な活動があって、それを実際にやっているので1日がぎちぎちにやることが詰まっていて、何かを取れば何かを削らなければならない、という類のことであれば話は別だけれど、そういうわけではない。無意味に他人のブログを眺めている時間であるとか、小説を読んでいる時間であるとか*1、無益なくだらない思考を巡らせている時間であるとか、自分にとって生産的でない時間というのは自分の生活の中に相当量ある。もちろんそういうこと全てを否定するわけではなくって、そういう活動も必要なのかもしれないけれど、そういうところに無意識的でいて、無意味に日々を過ごしている状況よりは、こういうところに少し意識を払うだけで、もっと生産的で有意義な生活を出来ると思うということ。のびしろは十二分にある。

また、気分とかいった問題もここにはもしかしたら絡んでくるのかもしれないけれど、それは甘えに過ぎない。実際追い込まれればやるわけだし、それは意識の持ちようなのだと思う。それより、自分がどうなりたいか、ということですよ。弛緩していたからといって、後で困るのは自分だと思うのだけれど。まぁ、それでもいいって言うんなら仕方ないけれど。10割に上げることは無理だと思う。けれど、今よりも少しずつは、生産的な活動が出来るのではないかな。無駄な時間、無益な時間を減らし、少しでも自分に有益な時間に置き換えていくこと。少しずつでもそういう意識を持っていくことが必要なのではないかと思われる。惰性で日々を過ごしているのではなくってね。

ちょっとだけ引いた視点から

…と、ここまで書いたところで、生産性が目的に陥ってはいけないな、と少しだけ思った。あくまで結果として生産性が上がることが大事なのであって、それが目的になってしまうと、不具合が起こりうるのではないかなぁ、と。生産性が強迫観念にならない程度に頑張ってください。そうなってしまっては、逆に生産性が下がってしまい、本末転倒になりかねないので。

*1:最近に限っていればこれはないけれど