上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

休止状態

少し時間を置いてみて分かったこと。

やはり、書くという行為に対する抵抗が今は結構あるのだな、という感じのイメージ。時間的な制約とかも色々あるけれど、それとは関係なしに、書くという行為に対してのスタンスを今捉えなおそうとしている状態。おそらく。

昔どこかで聞いた話なのだけれど、小説を書く、という行為は、周りの人を傷つける行為であるという。割とこの考え方には同意しています。結局自分で何かものを書くときには、それが自分だけの範囲の中に収まる話ではないのであって、どこかに周りの人との関係性といったものが絡んでくるのでしょう。自分の生活の範囲にあるものを搾取しながら文章を生み出している、と言っても良いかもしれない。いくらフィクションとは言え、完全なるフィクションというのは在りえないものだ、という風に考えています。完全なるオリジナルはどこにも存在しないだろう、というような考えと共に。そこには自分自身のものの考え方といったものは確実に挟まり、そしてそれに影響を及ぼしているのはほかならぬ自分の体験、他人との関係性の中で生まれてきた体験なのです。結局そういう過程を経て生み出されてきたもののなかには他人が含まれているのであり、そうした行為は他人の搾取につながっているのだと思う。少なからずそれは、自分の生活から切り取ってきた体験を、ちょっとだけ形を変えて生産しているに過ぎないのでしょう??

そういったこともあって、割とこのブログでは自己言及に徹してきたけれども。それでも、やはり自分の中に感じる違和感と罪悪感がどこかで引っ掛かる部分というのがあって。小説のみならず、ブログにも同様のことは言える。むしろ、ブログの主体である日常起こったことをそのまま書く、という行為は(僕のブログがそういう性質を持っているかどうかはまた別だけれど)、より直接的に生活とリンクするためそういう性質はいっそう強いでしょう。そういったことに対して今は距離をとって見てみたいな、と思った次第です。小心者だからね。

無は何をも生み出さない、というのも大きな要因の1つでしょう。プラスも生み出さないけれど、マイナスも生み出さない。軽薄さも誤りも無知も曝け出さずに済む。今は、少しでも混線を減らすために、マイナスに化け得る可能性を少しでも減らそうかな、という方向に向かっているのだと思います。昔、ブログを書く書かないの話をguessさんとしたときに(ちょうど2年前の6月の都大会予選の打ち上げだったと思いますが。)似たような話をしましたけれど。それはブログを始めるときに思っていたこととも重なります。多分思考の方向としては波を減らす方向へと指向しているのだろうけれど。とにかくブレを減らして、安定させるのが当面の目標なのかな。

どうも、昔と同じような方向性へと回帰しつつあるようです。だんだんと自己完結し、閉じている方向かもしれない。もっとも、全く同じところに回帰しているのではなくて、色々な含蓄を得たうえでの回帰だから、より積み重なった分はあると思いますけれども。ちょっと川面に近いところに上がってウロウロしてみて、様子を伺ってから、また淵の一番深く、澱んだところに戻ってきて落ち着くようなイメージ。しばらく様子を見ながら、時間を置いてゆっくりと評価するのが適切なのかな、と思います。ただ、視点が偏らないように。それだけは注意しないといけないとは思いますけれど。得てして、偏った良くない方向の視点を持ちやすい人間ですから…。あとは、山椒魚*1にならないようにだけ、気をつけないとね…(笑)。

…一番上の記事を変えたかったから、とりあえず何か書こうと思ってこういうのを書いたのだけれど。ただ、こういう文章を書くこと自体にも、やっぱり抵抗というのがあって…。何かの意見を主張することに対して、また、臆病になっているのかもしれない。意見を言うということに対する抵抗。それが書くということに対する抵抗につながっているのかもしれない。最近結構ちょっとした意見にも敏感になっていたりするところはある。ことに、人の文章とかね。新聞の投稿欄が苦手です。ただ、人間主張しなければならないときというのはあって、そのようなときには絶対に主張しなければならないとも思うけれど。それはわかっているつもりです。ただ、今はその必要性は感じていないだけで。そのときが来たら、それはそのとき考えます。とりあえずまた、しばらくはひっそりとおとなしくしていようかな、と思います。一番上の記事も新しくしたことだし…。