上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

成人式

そういえば成人式の葉書がうちに着ていた。今年も区の楽団によるコンサートだそうだ。

ちなみに兄貴の時には記念品があったのだけれど、今年は無いらしい。まぁ、中途半端で不要なものをもらってそのままいつか捨てられてしまうよりも、その分のお金を別のところに回すなら、それで良いと思う*1。もっと有用な使い道とかはいくらでもあるだろうし。そういう意味では、区の楽団だし、あんまりお金のかかっていない成人式、っていうことになるのかな。まぁ色々な在り方があってよいんじゃないかと思う。

一生に一度しかない機会だけれど、多分出ないと思う。小学校の頃に引っ越して地元に友達がいないっていうのもあるし、区の楽団によるコンサートっていうのもあんまり惹かれるところではないし。1人で行ってもつまらないしねぇ…。多分、十年ぶりに会う友達とかに会うのが楽しいのであって。ああいうのって。区とかの境界をまたいでしまうとこういうところが不便なのだよねぇ。大学入学時に上京して住民票移した人とかは両方から葉書が着たりする例もあるらしいけれど。でも、直線距離で言ったらこっちのほうが全然近いのにね、とか多少不満を述べてみても、まぁ仕方がないことなのだと思う。それを認めてたら凄い煩雑になりそうだし。

まぁ最近では成人式に儀礼的要素ってのはほとんど無いわけで(昔における元服とかとは意味合いは異なるよね。)、もはや通過儀礼*2としての意味を為していない成人式に出るか出ないかとかっていうのは別に社会の中で影響を与えるかといったらそう大して変わりは無いわけで、って考えてしまうのはひねくれものなのだろうか。まぁ思い出にはなると思うけどね。袴はいたりとか。あとは、「成人式に出て偉い人の話を聞いたりする」って言うのは、あながち無駄な経験ではないような気もするけれど。人生経験を自分よりも積んでいる人なわけだし、故あってそういう役職についているのだから。何かは思うところはあるでしょう。そういうものを得ようとする姿勢さえあれば。でも、結局のところ重要なのはまぁ本人の自覚がどうなんだっていうところなのかな、という気もしている。

なんか気まぐれに政治的(?)、空間的、儀礼的視点からそれぞれなんとなくふと思ったことを書いてしまいました。あー、でも、考え出せばいくらでも視点が見えてくる気がする。この「成人式」っていう問題って。

まぁ現実的に自覚という意味で見てみると、俺はまだまだ成人していやしないね。まだまだ。けれども、まぁ準備というか覚悟というかは少しずつ出来てつつあるのかな、という気は本当に僅かながらしている。学科とか決まって色々と動き出して、現実味が急速に増してきているからだと思うけれど。なだらかなものとして、徐々に、徐々に、という過程の中にいるわけでないのかもしれない。今は20歳と21歳のどっちよりでもないちょうど真ん中くらいに位置しているけれども。

時の流れが速いんだか遅いんだかよくわかんない。ホントに。

そしてこの文章によって自分が何を言いたいんだかまたわかんない。やれやれ(笑)。

*1:実用的であったりとかもらって嬉しいものとかならそれはそれでいいと思うけれど。小学校の卒業記念でもらった文鎮は未だに重宝していますし。

*2:定義的には多少誤った用法