上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

情報過多社会

最近SNSを見ていると、「○○さんが▲▲の記事にいいねしました」みたいな記事にあふれかえっている。

その多くはNAVERに代表されるような「まとめサイト」であったり、ネットメディアの特集記事のような「とってきた情報を紹介する」ものであることが多い。最近は「キュレーションメディア」なんて言ったりするみたいだけれど、人の意見の借り物でアクセス数が稼げて、それで広告収入が入ってくるのだから、確かにお手軽で儲かる商売なのかもしれない。

昔、インターネットがもっと身近でなかったころ、ホームページを開設するのにタグを覚えて打ち込んでいたころ、あるいは専用のビルダーを購入して作成していたころは、たぶんこうした情報発信に対するハードルはもう少し高かった。昔のホームページって、今よりも全然デザインは洗練されていなかったけれど、もう少ししっかりと調べられた情報が載っていたような気がしていて。それなりのハードルを越えて、それなりの労力を払って、それでも発信をしようとする人って、それだけの意思を持った人だったのだと思う。

結果として、ネットでキーワードを検索した時に出てくるものの検索結果って、今よりももう少しまともなものが並んでいたと思っていて。たとえば最近急性腸炎と思しき状況になって、症状だとか対処法だとかをネット検索したのだけれど、きっと昔であれば、ちゃんとした知識を持った人、もしくはそれを得ようとしている人が作成したホームページが並んでいたのだと思う。最近は検索結果に表示されるのはまとめサイトの羅列の中に、いくつかの病院等のホームページが紛れているような状況。2次情報、3次情報が平気で紛れ込んでいて、信頼性に対する判断がつけづらいものが、ものすごい量並んでいる。それを片っ端から見ていって、総合しようとしても、なんか表層を浅い情報の中でもがいているだけみたいな徒労感だけが得られ、手にしたものに大したものは残っていない。

昔のものがすべて信頼性があったかというと、そんなことはなく、もちろん昔のものも玉石混交だったとは思う。けれど、今のほうが、より玉石混交性が高まったというか、玉の数も少しは増えているのかもしれないけれど、イミテーションだとか石だとかの数が増えすぎていて、それを引っ張り出してくるのが容易でない、というか。

しかも、最近思うのは、そういう情報の多くは、あまり深い考察がされていない一時的な想念というか、表層的な考えのものが多いと思っていて。一冊の本にじっくりと対峙していくような深い情報のやりとりではなく、享楽的なもの、きれいなもの、たのしいものをざらっとなぞるようなものだとか、
一時的な感情とかそういうものを表しているものが多いような気がしていて。簡単な言葉とか簡単なイメージって、わかりやすいから人の心に響くように見えるし、実際ネット上で多くの人の支持(いいね)を受けるのはそういうわかりやすさだったりする。だから、必然的に目につくところに出てくる機会も増えるし、それが拡散されていく。twitterfacebookなどにより一般人の意見が付加され、どうでもいい情報量だけが多く増えて世の中に溢れ出ていく。

一億総中流社会、と昔言われたけれど、こういうわかりやすさだけがものすごく拡散していく状況で、実はそういう画一化だとか、中心化っていうのはさらに進んでいくんじゃないか。もしくは、周縁との二極化なのか。周縁のものはどんどん周縁で孤立を進めていき、一方で中心に近いところにいる人はどんどん中心に集まっていき、その差はどんどん離れていくのか。

なんかうまく言葉で説明できていない気がするけれど。最近頭をロクに使っていないせいで、ちゃんとこういうことが自分の言葉で説明できないようになっている気がする。今している仕事も、人の言葉のつなぎあわせ、ありもののつなぎ合わせで済まそうと思えば済ませられるし、実際おそらく自分がそうしてしまっているから今がこうなっている。これを書いている私自身がそういうしっかりとした読書だとか対話だとか思考だとかを最近していないのも理由としてあって、おそらくここに書いたようなことは世の中で誰かがすでに言っているはずである。こんなありふれた事象に対して素人考えでもそんなことを思うのだから、それを専門として研究している人がいるのは間違いない。それは普段スマホをいじってさくさくネットをさまよっている中では出てこようものではなく(もしかしたら表層をただようその辺の切れ端みたいなものはつかめるのかもしれないけれど、突き詰めていった深い思考みたいなものは転がっていないはずだ)、新書だとかそれなりのしっかりした文章を読み込む中でないと出てこないものであり、その行為を最近私はしていない。そういうこと。

誰でもキュレーターになれる世の中だけれど、それは昔のキュレーターを生業にしてやっていた人たちが人生と生活を賭して行っていたそれとはおよそ形もかけ離れている。同じ「キュレーター」という言葉を使うのも申し訳ないくらいだと個人的には思うけれど。

最近SNSを見ていても、広告やそういう玉石混交のn次情報に紛れて、友人の日々の日常が伝わらなくなってきてしまった。そろそろ潮時なのかな。