上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

洪水

昨日会社に行こうと思って電車に乗っていて、ふと周りを見渡せば、みんなスマホの画面に見入っていて、なんだかとても気味が悪くなった。かくいう自分も、その一人だけれど。

動画を見ている人、漫画を読んでいる人、ゲームをしている人。画面との対話に皆が没頭している。四六時中、画面から逃れることが出来なくなっている。スマートフォンの普及により、遠く離れた人ともSNSで簡単につながっている状況が、PCの時よりもさらに加速している。LINEのレスポンスの速さは、メールとも比べ物にならず、古い昔のメッセンジャーを持ち歩いているかのよう。端末を手にした瞬間、距離と時間は一瞬にしてゼロになる。私が会社に入社したときには、誰がこんな状況になっていることを想像していただろうか。

技術の進歩により、人の頭の中も確実に変わっていると思う。ブログに流れる文章、まとめに流れる文章の薄さ。ひとりの人の主義主張ががっちりと詰まった分厚い一冊の本に対峙するような、濃密な時間は減ってしまった。代わりに時間を食っているのは、細切れになった薄っぺらい主義主張。まとめサイトの薄い情報。誰にでも書けるような、既視感のある画一的な情報。さらには、細切れにされたツイッターSNS。そうした有象無象の情報、主義主張が世の中に溢れかえっている。画面の中も侵食している。圧倒的なフローの中を漂うのにせいいっぱいで、じっくりと物事を考える時間もなくなってしまうように思う。仕事の質もそのようになっているように思う。そして、身の回りのひとに対する対し方も。今の社会の要請は、なんとなく、そういうもんなんだと思うようになっているのだけれど。メディアリテラシーとは、意見の取捨選択のことだと思っていて、これからの社会ではその教育が必要だとは言われているけれど、それにしても、ちょっと飽食気味。結局、声の大きい人が強い社会の傾向は加速しているんじゃなかろうか。色々な人が、色々なところで色々なことを言っている。耳触りのいい意見、強い主義主張がもてはやされていく。

うまいこと情報を遮断しながら生きていくしかないのだろうけれど。精一杯やっているけれど、時々それでも激流に足を掬われそうになる。