上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

幼少期

幼いころ、母親に怒られる際の口癖は「学習能力がない子だね」だった。

些細なミスをして怒られる時、いつもこの言葉を言われ、前にした他のミスや、その他の欠点も挙げながら、如何に学習能力がないかということを滔々と並べたてられた。1を聞いて10怒られる、というくらいに、色々なことを関連付けられて怒られていた。

私の性格が周りの顔色を窺うようになっているのは、幼少期のこのような経験に基づいている部分は少なからずあるのだと思う。悪いことばかりではないと思うけれど、そのせいで、損をしていることもおそらく少なからず、ある。

私が少し道を外れたことをしようとしたときに、修正しようとしたのも母親だった。小学校時代の友人と公園で夜にギターを弾くための練習をしたいと申し出た時、大学で一人暮らしがしたいと思い東京から離れた大学を志望しようとした時、色々な理由をつけて道を矯正しようとしたのは母親だった。顔色を窺ってそれ以上自分を突き通そうとしない自分も自分だったが、そこに母親の考えている以外の選択肢はなく、別の道を余地として残さないやり方もまた、それ以外の選択肢を選ばない人間を作ってしまったのだと思う。大学に入学後はあまり口を出さなくなったが、顔色に表れるのは明確であり、言外のプレッシャーは常に感じ取っていたように思う。

結果として、自分の意志はどんどん薄く、軽く、存在感のないものになっていった。特に貫き通すべき意志などはなく、強い者に簡単になびくような意志に。それなりの理由付けをして論破するだけの意志力をせめて持ち合わせていれば、今は少しは変わっていたのかもしれない。

もちろん、これらの行いは「正しい」のだけれど。正しかった結果、ある程度、今の私がある意味で傍から見て「正しく」映るようになっているのは事実だと思う。その意味で、私は感謝すべきだし、そのおかげで今こうしていられるのも事実なのだと思う。そのことを否定するつもりはないし、そのことに対してどうこう言うつもりもない。そこに一方で感謝しているのも事実。

ただ、なんとなく、今自分が抱えているコンプレックスの根っこには、おそらくこういうのがあるのだろうな、と思っていて。周りから見て「正しい」かもしれないけれど、それはまさにその通りで、周りから見て「正しく」あるように生きている結果が今の自分なのである。たぶん。かと言ってじゃあそうではない自分があるかというと、そういうものはなくって、周りから見た正しさを取り去ってしまうと、そこには空虚な自分しか残らないのだと思う。あるいは、過剰なまでに。

過去を文字にして書き出すことの意味は色々な人が述べていて、そのこと自体におそらくなんとなしの効果はあるのだと思う。けれど、文字にして認識したところで、あまり性格というのは簡単に変えられるものではなく、ああ、仕方のないことなんですね、くらいの認識で終わってしまって先には進まない。現状を認識したところでそれは現状把握でしかなくって。

今日も朝家を出る前に、父親に対して文句を言っている母親の姿があり、家に帰ってきたら、同じように父親に対して文句を言っている母親の姿があった。これを毎日見ているのもあまり気分の良いものではないけれど、現状を打開しようとするとき、私にはそこから「逃げる」と言う選択肢を採ってしまう。次兄の偉いところは、こういうときに諌めようとする。けれども私は、見て見ぬふりをして黙っているだけで、その場からそそくさと離れてしまう。こうしたところがまた、嫌なものから逃げようとする自分の厭らしさを際立たせて、惨めな気持ちになる。さっきもそそくさと離れて今自室にこもっており、ぼんやりとこんなことを思っている。でもきっと、今の私にもそういう部分は確実に受け継がれているんだろうな、なんてことを思って、またがっかりする。

「自分のことを好きになれない人は、人のことも好きになれない人です」。昔どこかで読んだ一節が、未だに頭をめぐっている。

自分の嫌なところばかり、目につくものですね。直ってくれないかなと思いながらもう10年くらいが経つけれど、一向に直る気配はない。現状認識をしたところで、さらに直る気配はない。もうこれは、死ぬまでついてまわる病なのかもしれないね。それが、死ぬ原因にならなければいいけれど。