上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

友がみな

なんか周りにすごく頑張ってる人たちがいて、でもなんかすごく頑張ってない自分がいて。そんな自分が、時々すっごく嫌いになる。

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ…」。SNSとか見てると、時々、すごくそんな気分になる。すごく、焦らされている。でも、啄木さん、妻としたしめるだけいいじゃないですか、ってツッコミが出来るのと同様で、たぶん私にも他の人から見たらまだマシだと思える何かがきっとある。それは確実にそうだ。現状で恵まれている部分は、たくさんある。でも、他の人がえらい部分、他の人に比べてまだまだ頑張らなければならない部分がたくさんあるのもまた事実。自分が既に持っているものに逃げ込んで安住しているんじゃなくて、まだまだ足らない部分を改善していかなければならないですね。

思うけど、啄木ってなんか人をうらやむのはいいけど、「働けど 働けど猶 わが生活…」にもにじみ出るように、なんか自分のことはとりあえず棚に上げて周りのせいにしている、というか、自分は自分として保っているというか、そういう弱い人間なところも垣間見えている気がする。自己愛、というか。俺こんだけ頑張ってんだけど、とか、そういうのって、人に認められたいけれどそれを表に出しちゃいけないと思う。和田アキ子も「プロ論」の中で言ってたけど。なんでこう思うかっておそらく、確かに自分がこういう気分になるときがあって。自分の中にすっごくこういう部分があるのは自覚していて、それで、時々他の人がこんだけ頑張ってますアピールしているとき、それを見て、なんか自分のそういう部分にスポットライトを当てられた気がしてすっごく嫌になる。あぁ、俺もこう見えてるんだな、って。その辺の弱さが捨てきれなくて、すごく苛立ちが募る。だから啄木をこうやって批判(になるんでしょうね)しているのは同時に、そういう性質を持つ自分への批判にもなっている。

それとも、啄木の言葉に対してそう思うのって、持ちし者=強者の考え方で、どうあがいても変わらない状況っていうのがあるのだろうか。おそらく、そういう部分もある。スポーツにおける身体能力とかもそうだけど、ワーキングプアの問題みたいな。階級によって規定されてしまう部分。努力で何とかなる部分と、努力で何ともならない部分。この問題って、立ち位置がいっつも定まらなくなる。強者、持ちし者は得てして努力で何とでもなる世の中だ、と言うし、弱者、持たざりし物は努力で何とでもならないものはある、と言う。前者は成功者の言葉に為り得るし、後者は失敗者の言葉に為り得る。ホントに努力で何とでもなるの?って思うときもあるし、努力で何とかならない部分なんてなくって、それって結局はやり方の問題なんじゃないの?とも思うときもある。果たしてどっちの意見が正しいのだろうか。どっちの言い分も正しいと思うけれど、でも、だからといってそこで自分の立場こそが正しいと言うだけ言って言いっ放しになるんじゃなくて、相手の立場も慮る、というのが人の取るべき態度なんじゃないかな、と思っているけれど。どっちも正しい。たぶん。だから、努力で何とでもなる部分があるなら努力すればいいし、努力で何とでもならない部分があるんだったらそれ以外のところで何とかなるよう方法を変えるしかない。その時々に応じて、自分が納得する立場をとる。結局は昔から何度も繰り返しているように、世の中バランスなのですね。中庸。

そりゃお金持ちの家に生まれたわけではないからお金で何でも解決できないのと同じことで、お金がないならないなりの幸せを見つければいい、そういうことなんじゃないのかしら。そこに人をうらやむ気持ちとかそういうのが絡んでくるから前述の啄木っぽくなってくるのかもしれないけれど。お金があるのが良いことだと思うから羨ましくなるのであって、別にお金なんかなくてもいいじゃないか…でもそれをしてでもなおお金があることが良いことだって思うんなら、そりゃお金を稼ぐ方法をちゃんと考えろ…って、なんかだんだん超越の話に戻ってきた気がするな(笑)。結局は本人が納得できるようにしろ、っていう、これもいつもの結論。

なんか話が逸れてきちゃった。結局、周りの人がすごく頑張っているように見えるのは事実。私ももうちょっと頑張ります。清く、正しく…