上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

見積もり

歳を重ねるごとに、見積もりは正確になってくる。

何か物事に対して見積もりを行うとき、最高の結果から最悪の結果までおおよそ無意識のうちに5段階くらいの見積もりをしていると思うのだけれど、最近、上から3番目か4番目くらいの見積もりが当たることが多い。「まぁ、こんなもんかな」っていう程度のところ。見積もりを大きく上回ってくれるとそれは嬉しいのだけれど、そんなことはだんだん滅多に起こらなくなってきた。

中庸を知るには両極端を知る必要があるのと同様に、上から下まで歳を重ねるにつれ様々な経験が増えてくると、どのあたりに位置するものなのか、という見積もりの精度も自然と増してくる、ということなのだろう。上を、下を、知ってしまうから、その範疇にあるものに出会った時の驚きは少なくなる。

昔、理想が高すぎるのかみたいなことをちょっとした勢いで書いて、翌日に後悔したことがあるけれど、下の方で見積もっていたつもりがその通りになって、「まぁ、そんなもんなのかな」って思うことも多い。それが現実のせいなのか理想のせいなのかはまだわからないけれど、結局現実が全てなのだから、現実に理想を合わせていくしかない。あるものは現実のみなのだから、いくら理想を語ったところでそれは空論に過ぎず、現実を変えていくように努力していくしかない。

一方で、それを繰り返して過ごしていると、なんていうか「期待しなく」なってしまっている。高いものを求めて高いものが返ってきたときの喜び、みたいなものはあるんだろうけれど、そういう期待を全然しなくなっていた。「まぁ、そんなもんでしょう」と思うようにすると、失望することもなく、裏切られることもなく、平穏に日々を暮らしていける。

最近、自分の行動も最近そこに合わせてしまっている気がして、とても良くないと思った。「見積もり」という行為には方向性(見積もる側と見積もられる側)がある。当然、逆方向、というか、自分が外の世界に対して見積もりを行うのと同様に、他者が自分に対して見積もるもの、というのも存在する。「この程度まで出来ていてほしい」みたいなもの。それを読み取ろうとし、それを自分の中で設定し、それに合わせることに慣れてしまっている。もっとも、昔からそういうところはあるけれど。「こんなもんかな」のちょっと上くらいを出せるように生きている。大きく外しはしないけれど、大きく当てることもない、みたいな生き方。点数主義で常に100点を目指すような生き方ではなく、偏差値でちょっといい偏差値を取ろう、みたいな考え方。

ずるいと言えばずるいのだろうし、かしこいと言えばかしこいのだろうし、うまいと言えばうまいのかもしれない。けれど、これだと、相手の見積もりを負の方向に損なうことはないけれど、一方で正の方向に裏切ることもない。いい意味で期待を裏切る、ということが起こりえない。それではダメだろう、と思って。もうちょっと、100%というか、全力で物事に向き合う姿勢というのが必要なのかもしれない。たまにいい意味に期待を裏切られた時に気付かされる。例えばこんなときに。

そういう見立てって、人から自分の分に関しては結局人が決めることであって、自分が決めることではない。自分で勝手に見積もってる限り、その壁は絶対に越えられないわけで、まずはその壁を取り払って考えなければその先には行けない。そして、いくら的確になってきているとはいえ、自分の見積もりが合っている保証なんてどこにもないし、そこでの戦いに慣れ切ってしまうとその先のレベルには一生たどり着くことは出来ない。自分の中にそういう思い込みを作らないようにしたい。

なんか醒めてんだよな。4年も経つと色々な物事が変わっている。この辺も徐々に「正しく」していこうと思います。今年は。