上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

アドレス

アドレス帳が500件を超えていた。昔のケータイなら入らない件数。

ケータイを買ってから一度もアドレス変更をしていないのも一因だと思う。「アドレス変更しました」の一連の儀式を済ませた上で残っている件数は、果たしていかほどか。たまに久々にメールをした人に、mailerdaemonからメールが返って来て、それが意味を失ったただの文字列になっていることを知る。こういう「死にアドレス」はいくつあるのだろう。

名前と顔の一致しないアドレスはまだ今のところ、ない。一度飲みに行っただけの大学時代の人も顔は思い出せるし、一度合コンをしただけの人も、いつどこの誰だったかくらいは思い出せる。おそらくは、もう二度とその人に会うこともないし、連絡を取ろうとすることもない、登録された最初だけしか使われることがなく、ひっそりと存在し続けるだけのアドレス。こういう「不要アドレス」も、年を重ねるにつれ増えてきた。

ケータイを買ってから、今まで一度もアドレスを消したことがない。増え続けているのみである。部屋の掃除と一緒で、「いつか使うかもしれない」という思いがアドレスを消去することを躊躇させる。部屋の掃除と違うのは、物理的スペースを取らないから、消さなくてもあまり弊害が出てこないこと。アドレスを探し出すのが多少面倒なくらいしか害はない。じゃあ、まぁ入れとくか、ということになる。

おそらくこうした死にアドレスと不要アドレスの使い道は、記憶想起のとっかかりくらいなのだろう。アドレス帳に並んでいる名前をぼんやりと眺めて、「あぁ、これは、あの時の、あのひと」と思い出すくらいしか使い道はない。たぶん、アドレスを消してしまうと、想起のとっかかりを失った記憶は奥底へと沈んでいき、二度と拾い上げることが出来なくなる。私の記憶からその人が思い出されることは、もうなくなる。その必要はない、と判断するならば、アドレス消去の作業をしても良いのかもしれないけれど。

こういうちょっと時間のあるときの暇つぶしくらいにはなるんだけどね。まぁ、残しても良いか。結局、いつもの結論。