上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

空中戦

小説家には、事実を並べてその事実が含み持つ重さで読者の想像力を刺激してストーリーを展開していく作家と、観念的な言葉を多用して観念的なところで読者の想像力を刺激してストーリーを構成していく作家がいると思っている。テクストはあくまで読み取られるものとして横たわっていて、小説家は読者の中にある何ものかを想起させるキーワードというか、象徴を文章にして並べていく。そうして並べられた象徴によって私たちの心の中に持っている想起されるものが、読後の世界観みたいなものを構成しているのだと思っていて(文学的な分野の不勉強のせいで、非常にぼんやりとした言い方しか出来ないけれど)。その想起の仕方で、前述のような分け方が出来るのではないかと思っている。例えば前者であれば重松清とかはそっち寄りなんだと思うし、後者であれば村上春樹なんかはそっち寄りなんだと思う。なんとなく直感的に分けただけだけど。

私は自分のことを割と後者側、というか、観念的な部分が多い人間だと思っている。昔「空中戦が好きだよね」という話を某先輩としたけれど、その指摘は間違っていないと思う。普段読む本も、どちらかというと、後者寄りの本が多い。今日は前者側に分類されるであろう本を読んだのだけれど、そういうときに、ふと、結構現実から目を背けて生きているのだなぁ、と思う。たまに、そういう「現実に引き戻す」目的を込めて、前者寄りの本を手に取ることもある。観念にはいくらでも「逃げ込む」ことが出来ると思っていて、いくらでも直面することから逃げられるのだと思う。言葉遊びをしていればうやむやにできてしまう部分、というか。解決というのはわかりやすい形で見えるものではない。自分で良しと思えば良しとなるし、自分が悪しとすれば悪しになる。けれど、現実っていうのはその方法の違いこそあれ、いつだって解決されたか解決されなかったかはわかりやすい形で存在している。そういう意味で、私は、目の前にある解決されていない現実を、観念的な問題に置き換えてしまって、なんだかんだ言葉遊びで理由付けをして「仕方がないこと」のように見せかけて、見て見ぬふりをしているだけなのだなぁ、と思う。言い訳、っていうか。自分の中だけで問題をこねくり回しているだけで、それでは根本的な解決にはいつまで経っても至らない。

これも言葉遊びなんだけどね(笑)。観念論ももちろん必要なのかもしれないけれど、現実とのバランスは絶対に必要。さて、そろそろ現実に身を引き戻すために、出勤しますかね…。