上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「残念」なひと

言ってることやってることは一見するとマトモなんだけど、なんか「違う」人がいる。なんだか「残念」だ、っていう評価がされてしまう人。

ぼんやりとSNSのタイムラインを眺めていて、その違和感の正体がなんとなくわかった気がした。結局それって、相手の気持ちにどれだけ呼応できているか、っていうことだと思った。

「お節介」だとか、「しゃしゃる」とかっていう表現がこれに近い。いくら正しいことをやったところで、それが相手の求めているものでなければ意味がない。相手の求めているものを相手が求めているように提供できることが一番望ましい。何か言葉を発するときとか、何か行動をするときって、意識はしていないだろうけれど、ある程度相手のリアクションの型、みたいなのを無意識に頭に浮かべていることがほとんどだと思う。おおよそ、その範疇で収まったリアクションが返ってくるから関係が成り立つんだろうけれど、中に、そこから外れた言動だとか行動だとかをする人がいて、そんなときに「えっ」と思って、違和感を感じる。

多分相手の気持ちに呼応できない人って、相手の行動に対して自分の中にある価値観を精査することなく、そのままストレートに反応として出してしまうんだろう。そこに擦り合わせの余地がない。相手がどういう意図を持って、どういうリアクションをイメージしているか、と言ったことを抜きにして、自分が持っているものだけでリアクションをする。だから、相手の持っているものと食い違っていて、結果的に違和感だとか不快感だとかを相手に与えることになる。最近結構「なんかそれ違くない(苦笑)?」とか「いやそういうつもりで言ったんじゃないんだけどな(苦笑)…」とか思うことがあるのだけれど、それって結局これなんだろうな。

ちょっと意味は違ってきちゃうのかもしれないけれど、「流れを乱す」っていうのも、これに近いのかもしれない。ある種の期待を込めたリアクションのやり取りが重なるとそれは流れとなるけれど(会話とか)、SNSにいろんな人が載せているつぶやきのコメント欄をぼんやりと眺めていて、誰それ構わず延々と自分の思ったことのコメントを付け続ける人がいて、もちろんそれはそれとしてある意味当たり前の行為なんだろうけれど、そのコメントによってそれまでのコメント欄の流れがぶった切られているときとかがあって、なんか残念に思うときがあって。人はそれぞれ違うコミュニティに属していて、そんなコミュニティの軽重はなくそれぞれの個人が平等にコメントする機会が与えられているからこそ起こり得る事態なんだろうけれど。そんな中に、それまでの流れなんて関係ない、俺は俺の思ったことを書いていきます、的なひとがいる。書いた人の意図とかそういうのを抜きにして。

個人的に「流れ」というのは凄く大事なものだと思っていて、その人の人となりであるとか、築いてきた時間であるとか、そういう「文脈」によって物事には豊かな背景が与えられると思っている。それを理解しているのとしていないのとではこういうリアクションの質も変わってくると思っていて、そこに対する思いの軽重でおそらくこの違和感が生まれてきてしまうのかもしれない。こういう流れって、会話単位の小さなものにとどまらず、それこそ結婚生活とかそういう長い単位のものまで含まれるものだと思っている。人間関係は一度始まってしまえば、そのすべてがその人との一連の「流れ」として捉えることが出来る。あるいは、1対1の関係に留まらず、集団にも「流れ」は存在している。その中で、それを踏まえずにリアクションがなされることで、行われる1つ1つの行動は文脈から切り離して考えれば正しいのかもしれないけれど、それが然るべき文脈の中で然るべき形で出てきていないため、調和を乱している、と感じられるよう場合がある。そんなとき、なんか「違う」「残念」だ、って思ってしまう。

そうした一般的に「望まれるリアクション」の集合体が、多分「常識的な」と呼ばれるものだと思うのだけれど。結局私が多数派になりたい、とか、真っ当になりたいとか思っているのはここの意識があるのだと思っていて。中心からそう外れていないければ、相手に対してこういう思いをさせることも少なくなる。一昔前に流行った「KY」なんて概念はまさにこれだと思う。非常に日本的な考え方なのかもしれないけれど、私の普段の行動規範の中にこれは割と重い位置を占めさせたい。自分が出来ているかと言えばそれは別の問題で、どちらかというと特殊な方に属しているのは認識している。結構出来てなくって空気読めてないことも多いんだけど、それでもその状況が今よりもより良いものになるように努力をしていきたい部分ではあるのだ。

こういうところが「ズレている」ひとだからこそ出来ること、というのももちろんあるとは思っていて。周りの空気ばっか読んでちゃ痛みを伴った改革は断行できない。それはまた、別の問題だし、私はそこに価値を感じている。別にそういうひとが「悪い」と言いたいのではなくって、そういうひとはそれはそれとしていてもいいと思っていて、でも自分はそうじゃない在り方でいたいなぁ、って思うだけのこと(笑)。

なんとなく言語化できなくてぼやぁっとしていたものが今一気に視界が晴れた感じがする。晴れてみればそれはすごくシンプルなことで、しかも、結構何度か書いてきたことなんだけどな。惜しいところは突いていて、たとえば「押し付け」で日記内検索したときに大量にヒットする記事なんかは、多分相当すれすれの線まで行っている。ただ、それが押し付けだと主体側の意識だけれど、押し付けていなくても受け取る側の意識に視点を移した時に、この答えに行き着いたんだろうね。何度か書くうちにだんだん中心に近づいていって、さっきその瞬間2つか3つの鍵がかちっと噛みあったんだろう。あー、でもなんかまだ、うまいこと言葉に出来ないな…。語彙力と表現力と論理的思考能力が不足している、おそらく。