上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

妥協と後ろめたさ

毎日毎日、SNSの画面に表示される「今日はこの人の誕生日です」の表示を眺めながら、よくもまぁこんなに毎日誕生日の人がいるものだなあ、と思っている。

「皆が大切なともだち」なのだから、ほんとうは皆に対しておめでとうのメッセージを送りたい。他の全てのひとにとってはただの1日に過ぎないけれど、誕生日のひとにとって、その1日というのはとくべつな1日のはずなのだから。そんな1日を、なるべくなら盛り上げてあげたい。

しかし、そんな表示を毎日眺めながら過ごしているうちに、なんとなく「祝って祝って」とせっつかれているような気になってしまう。あのひとにはメッセージ送ったしなぁ、じゃあこの人にも送らないわけにはいかないよなぁ。そうするとこの人にも…。身の回りに押し寄せる多くの情報について、そのそれぞれに「こうするのが一番理想的」な答えが存在する。そのそれぞれをすべて、1つ1つ丹念に達成できればそれはすばらしい人間になれるのだろうけれど、残念ながら私はそこまでよくできた人間ではない。「理想」を理解しながらも、現実的にはあるレベルで見切りをつけ、妥協をしながら現実を生きている。それを繰り返すうちに、次第に「理想通り」に行動することが出来ない自分に後ろめたさと若干の罪悪感を覚えるようになる。そういう後ろめたさを抱えて、表示を眺めるようになってしまう。

おそらくそれをもたらすのは、自分の中にある「まだまだ出来るはず」という思いだ。常に100%の力で生きているわけではない。たぶん、100%を出せば、もっともっと細やかな気配りだとかが出来るようになる。「一番理想的な答え」を体現できるよう、極力努力すべき、なのだ。けれども、現実は面倒臭さが先行し、100%には到底達していない。「こうしたほうがいい」というのを理解しているのにそれをしない。まだまだ努力できるはずなのに、自分の中に巣食う弱さのせいで、それが達成されていない。それで結局、自分に対して失望が募ることになる。26年間、ずっとそうやって生きてきたはずなのだけれど。

結局、どこかで「えいやっ」と線引きをしなければならない話なのだから、その線引きに対して別に思い悩まなければ良い話なのだろうけれど。その線引きが苦手なせいで、余計なところで必要以上に気を使って気分を重くしてしまう。こんなこと考えてる間に、さっさと手を動かせば済んでしまう話なのにね。