上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

社会的性質

こないだ日食のときに思ったけれど、もう少し、周りに左右されずに、というか、周りを気にせずに生きてみたいな、と思った。

実際日食のときもそうだったけれど、他人が騒いでいるとすっごく「乗り遅れた」気になる。周りに合わせなきゃ、って思って、焦らされてしまう。そういうのをちょっと引いた部分から見ている自分がいて、別に興味ないし、とか思っている自分もいるのだけれど、そうやって引いてみていると社会からはじき出されている気がして、懸命に流れに乗っていかなければいかないのではないかと思ってしまう。社会寄りに傾いているときと、一歩引いて眺めているときの狭間でスタンスが揺れ動いている。なんていうかそういう流れについていく性質を仮にも「社会的性質」と名付けるとすれば、それが自然と身に着いているひととそうでない人のグラデーションみたいなのがあるのだと思う。そういうのが自然と内発的に出てくる人はいいのかもしれないし、もしかしたら私も内発的に出てきているのかもしれない。おそらく、確実にそういう部分があるからこそ、今自分がこういう風にしていられるのだと思う。それは認める。けれど、一方で、どうしてもそこに対して懐疑的な視線を投げかける自分が自分の中にいるのである。その2つのスタンスの間で揺れ動いていて、前者の時には割と色々なことがすんなり出来るのだけれど、後者に近づいたとき、時々、世の中の流れにキャッチアップするのに疲れてしまうときがある。後者なら後者にどっぷり浸かりきって、時代に合わせるんじゃなくて、俺に時代がついてくる、くらいに思える人ならばそれはそれでいいのだろうけれど、そこまで神経が図太いわけでもない。臆病者だから、やっぱりそういうものを気にして生きてしまう。他人の幸せと自分の幸せが違うことは理解しているはずで、万人が万人同じことをして楽しいと思うわけでないのは理解しているのだけれど。そういう意味で、冒頭の1文が出てくる。

昔から「自分が『本当に』好きなことってなんなの?」って思って生きてきた。自分が「好き」なことって、なんとなく、内的に湧き上がってくるものではなくって、外的にもたらされているものであるような気がしていた。「好きでやっていること」っていう一群はぼんやりと自分の中にあるけれど、自分が本当にそれをやりたいからやっているんじゃなくって、「それをしている自分」をイメージして、そのためにやっている、というか。ある種「恋に恋する」みたいな状況のようなものだと思うのだけれど。常に、他者からの視線を気にして(=自分の一歩引いた視線、というのがおそらくこれと同じ視点に立とうとしている故に出てくるもの)、それにそぐうように行動している。それが行動規範になっていて、自分自身がこうしたいからこうする、ではなく、こうあるべきだからこうする、みたいなものとして捉えている。他者の視線を過敏に意識しすぎるあまり、いつしか主客が転倒して、他者の視線に、自分が侵食されて飲みこまれていく。そんなときがある。

今朝の新聞に載ってたけど、SNSに写真のっけて「いいね!」されるために使われるお金みたいなそういう類のお金、いわゆる「ネタ消費」の経済効果は3400億にのぼると言われているらしい*1。この「ネタ消費」って、こういう性質を多分に含んだものだと思っていて。自分が欲しくて良いモノだと思って買う、っていう消費の形が1つあるとして、その別に「こういうもの買ったんだぜ」って他人に自慢したいから買う、みたいな消費で、結局他者がいて、他者の視線があって初めて成り立つ消費だと思う。自分1人で完結する消費ではなくて。こういう消費に限らず、SNS上でやってるおそらく全てのことって、常にこの性質を纏っていると思っていて、時々自分がどっちのためにやってるのかわからなくなってくる。おいしいものがあるから食べよう、ではなくって、これ食うとSNSに乗っけられるかな、とかいう考えがふと頭をよぎってしまう。写真を撮るときだって、自分が撮りたいときに撮ってるんだか、他人に見せられる「絵になる」と思って撮ってるんだか、撮ってるうちにわからなくなってくる。自分の中に前述したような性質をもった自分がいるからそうなるのかわからないけれど、そうやって、一体自分は何のためにこうしているのか、わからなくなってしまうときがある。時々そのことに気がついて、それって結局他者に踊らされてるってことじゃないの、と思うのだけれど、声を大にしてそれを言うほど自分でそう信じ込んでいるわけではないし、そう思ってしまう自分が「社会的でない」気がして嫌になってしまうので、結局、こそこそと大衆に迎合して同じようなことをしているのである。

リア充」「非リア充」っていうのもこの類の話に近いのかな、と思っていて。最近友人が言っていたけれど、「SNSリア充が使うツールなのではなく、あくまでリア充を演じるツールなのだ」と。厳密に言えば私はそうではないと思っていて、リア充はそんなことも考えずにSNSを「使っている」だろうし、自分を非リア充と思っている人は、こうして「演じる」ツールになってしまうのだろう。前述した言葉を使うとすれば、「社会的性質」が多分にある人はSNSを「使える」のだろうし、それがないと思っている人は「演じる」側になってしまうのかもしれない。自分自身にもおそらく(というか間違いなく)そういうところはあって、自分に持っていないものを持っているからこそ、羨望の眼差しを持って、そういう風に見てしまうのかもしれない、と思うのだけれど。ある種の僻みみたいな部分はあると思うんだけどな。

この手の性質ってあんまり健全ではないという意識がなんとなくあって、おそらくこれがなんとなく「自分って普通じゃないなぁ…」と思って、引け目を感じる理由なのかもしれない。ちょっとこのあたりが、過敏なんだろうね。でも、これって今に始まった話じゃなくって、古代ギリシャの時代から「人間は社会的動物」って言われてるくらいだから、仕方ないのかもしれないね(笑)。多かれ少なかれ、意外とみんな、そういう部分を持っているのかもしれないし…。

*1:2012年5月31日付日経新聞31面