上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

不完全性

実家なり、東京に帰った時に毎回思うのは、きっと、ある種の「不完全性」なのだと思う。自分についての。

普段1人で寮で暮らしているうちは、あまり自分の不完全性について考えることはない。それは、自分のペースで物事を進められるからなのだと思う。自分の食べたい時間に食事を採る。風呂に入りたいときに風呂に入る。寝たい時に寝る。自分がしたいと思ったら掃除をする。自分がしたいと思ったら人に会いに行く。自分のペースで行っている事柄については、自分自身の不完全性はさして問題ではない。自分自身の不完全性によって何かしらの不都合が引き起こされたとしても、その時に困るのは自分なのだ。自分が損をしてもそれは自業自得だとして納得する。人に迷惑をかけることはない。

「人と暮らす」ということはそうではない。共同生活の中で、自らの不完全性によって引き起こされたことが、他者に影響を及ぼす。

それは、こうした掃除とか料理とかいった現実的な事柄に留まらない。人間的なもの、精神的なものも絡んでくる。「意思」とか、「ものの考え方」とか、そういう問題。むしろ、こちらのほうが大事なのではないかと思う。

そんなときに、自らの不完全性に直面する。他者が自分に対して期待していることが、決定的に自分に欠けていることに気が付いてしまうのだ。そういうものって、一時的には取り繕うことはできる。旅先とか、訪問先とか、そんなレベルの話では何とかなるものだ。しかし、一緒に暮らすということは、いずれその問題に直面せざるを得ない。全面的に。

相手の不完全性に関することならば、自分が納得出来るかの話だから、それはどうでもいい。自分が納得できるか否かは、自分が決めることだし、そこに関しては諦めがつく。他者の不完全性について自分が変えることは出来ないのだから、あとはどれだけ寛容になれるか、あくまで自分の認識レベルの話である。ある程度の訓練を積めばその問題は改善出来る。問題は、自分の不完全性に関する部分である。他者が納得できるものを自分が提供できるか、ということ。相手の期待に添えるか、という部分。その部分が、決定的に自分に欠落しているとしたら。相手に与えることができないとわかってしまったとしたら。他者の認識については、自分はどうすることもできない。

実家に帰った時に、そういう部分での自分の不完全さ、みたいなものが、目につくのだと思う。本当はそうあるべきなのに、自分にはない部分。「あぁ、俺は、この種の期待にはそぐえないな」と思ってしまう。一時的には何とかできるけれど、本質的にその部分が欠けているものだから、それをずっと続けているといずれ綻びが生じるのだと思う。まともな人間になろうと思ってきたつもりだったし、ある程度のことは改善してきたつもりだったけれど、結局、私自身には不完全な部分がある。人によっては、それを決定的な欠落とみなすような、欠落。具体的にこれといってぽんと出てくるわけではないけれど、感覚的なものとして。

もちろん、完璧な人間なんていないんだけど。他者の期待に完璧に添うことのできる人間なんてものはいない。けれども、クリティカルなもの、というのはある。これだけは外せない部分。それが欠けていたとしたら。それが、凄く怖いことなのである。思い過ごしだといいのだけれどね。