上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

実家にて

実家に帰ってきている。

自分より優れている他人を見るたびに、自分に欠けているところが浮き彫りになり、ふと、悲しくなる。俺にはこれ、できねーんだろうな、って。そして、実家では、それが顕著になる気がする。親を見て自分に欠けている部分。兄を見て自分に欠けている部分。特に実家という場所では、自分に近しいマインドを持っている分、長い間いて一番その性格を分かっている分、何が彼らにあり、自分に欠けているものであるのかが、明確に見えてくる。今の自分を形作っている原点が、そこにあるからこそ、それらは確かな現実として顕わになる。この歳になって、家を離れてみて、改めてそこに帰ってきてみて、見えてくるものが確かにある。何がそこにはあり、何が自分の中にはないのか。彼らから与えられるものと、自分には与えることが出来ないもの。和やかに談笑している顔の裏で、欠けているところが自分の中で確かなものとして存在感を増してくる。内側から突き上げてくる。どうしようもないからこそ、悲しくなる。なんか、悔しさとか苛立たしさとかそういう類の感情ではない。悲しさ。

この歳になると、ある程度自分自身の性向として、凝り固まってしまったものがあって、どうしようもないこと、というのがある。もちろんその変えようのない部分は長所にもなっているのだけれど、それは短所にもなりうる場合がある。長所があればその裏返しは必ず短所になる。すべてがうまくいく、なんてことはないのだし、逆のほうがいいこともあるのはわかってはいる。けれども。

こういう悲しさを覚えてしまうのは、たぶん、実家、家庭っていうのが、一番安心できる場所だからなのだろうけれどもね。おそらく、今自分が一番悲しい、と思っていることは、自分自身がそのような場所を作り出せるだけの力を持っている、という実感がないことなのだと思う。両親や兄は、その場所を持っているし、実際に作り出している。けれど、自分にはまだそれが出来ないし、その欠片すら見えない。見通しすら立っていなければ、自分自身にその力があるのかどうか、すら、わからない。今の自分の全人格すべてを持ってして、それが出来るかどうか、わからない。というより、出来ない気がしてくる。少なくとも、親や兄はそれを成し遂げていて、私は未だそれを成し遂げていない。そして、彼らにあるものが、自分にはないことがわかっている。それが一番悲しいことであり、また、内側から突き上げてくることなのかもしれない。実際にやってみないと、わからないからこそ、なのだけれど。

やっぱり、悔しさ、も、少しは混じっているのかもしれない。夜だから、こんなことを思ってしまうのかもしれないけれど。明日は、自分に出来ること、自分だからこそ出来ることを少しくらい考えてやってみるのも、いいのかもしれない。