上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

公平性

公平性ってのも、良く考えると1つの恣意性を含んだものなんじゃないか。

「偏り」ってのが何を指すかはわからないけれど、完全に公平な判断なんてモノは不可能に近い。インターネットのニュースポータルの情報には偏りがある、テレビのニュースだって偏った視点だよなぁ、ということを思うときがあるけれど、じゃあ何が偏りのない情報源か、と言われると、実は答えに窮する。新聞の情報が偏りがない、と言おうとすると、まぁ確かにそれらの情報源よりは多少は不偏不党に近い立場に立とうとしていると言えるのかもしれないけれど、それらの情報源にも情報の取捨選択、情報の捉え方には確たるスタンスがある。そこには恣意性が紛れ込んでいるものであり、結局恣意性を完全に排除しきった公平性なんてモノは有り得ない。本当に恣意性を排除した情報を手に入れようとするならば、全ての事柄が発生するときに、その時その場にいて自分の五感で感じるしかない。多分。

それと同じくして、自らが何かをしようとするとき、そこには完全なる公平なんてモノは存在しない。公平な判断を下そうとするときにも、どうしてもそこには恣意的な判断が紛れ込んでしまう。同じくして、って言えるのかどうかわからないけど、同じことになりませんかね。自分がすることなすこと、あらゆる全ての選択肢の中から選択して行われることであり、それがどれだけ公平性を期したものであっても、そこに選択が挟まっている以上、恣意性を孕むものにならないのだろうか。アキレスと亀的な話になってしまうけれども。

というよりむしろ、公平を期そうとすること自体が恣意的な判断なのだね。

だから何が言いたいの、って話だけれど。今更気付いてるけど、これって考えてみれば酷く当たり前のことだ。公平性が恣意的なものである以上、そこを特に標榜する意味みたいなものは無いんじゃないかと思う。あくまで公平性だって1つの判断に過ぎない。あくまでそれも1つのスタンスに過ぎないのだ。好みの問題だね。特にそこに対して自分なりに価値を認められないのであれば、過度に捉われすぎても良くないということだね。

ちょっと位相の違う話が紛れている気がしなくもない。