上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

明鏡止水、というにはまだ揺れているけれど

池の中に石を投げこんでも、一時的に波紋が広がりさえすれど、時が経てば水面は元通り静かになる。

最近自分の生活を見ていてそう思うことがあります。確かに表面的には色々なことが起こっているけれど、それは池に投げ込まれた石に過ぎない。一時的に水面を乱しこそすれど、それはあくまで一時的なもの。池から水は溢れない。気付くとまた、元の鏡面に戻っている。

自分としては変わろうと思って色々なことに手を出してみるつもりでも、結局根っこの部分が変わらない限り、あまり大きな変化は望めないものなのでしょうね。表面部分にわずかに波紋を作るだけに過ぎない。根っこの部分から揺るがされることは、ない。

しばしば、自分の生活を「閉じている」と表現することがある私ですが、おそらくこの感覚には、そういう性格的な部分も影響しているのだと感じています。変化を望まない部分が絶対心のどこかに存在している。それも、相当根っこに近い部分に。どこかに、現状に満足している部分があるのでしょう。だから、変化の兆しに対して大きく身を委ねずに、表層的な対応に留まってしまう。表面部分のマイナーチェンジはあっても、根っこの部分はそれまでの位置に安寧としている。このままこの性格でい続けるならば、特別に外部からの強力な干渉がない限り、このまま特に変化もないままだらだらと年を重ねていく気がします。

人は変わろうとするとき、本当に内側から変わろうという気が起こらないと変わらないものだといいます。今は、変わるべき必然性を感じていないだけなのか。本当に、自分から変わらなければならないという強い意欲が出てきたときには、変わることが出来るのだろうか。

いつか、池の底から新たに水が湧き出てきて、池の水が溢れ出すことがあるのでしょうか。

これも、単なる思い込みに過ぎないかもしれないけれどね(笑)。ものは、言いようだ。