上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

俯瞰、留保

本配属から3週間あまりが経ちました。まだ3週間程度しか経っていない、という表現のほうが近いかもしれません。

前々から俯瞰癖はあったけれど、最近その傾向が増しているような気がします。周りのことに対して、評価を加えずに、とりあえずそれはそれとして受け止めて見ている。善悪をそこに対して与えるのではなく、善でも有り得るし悪でも有り得るものとして、とりあえず「そういうもの」として把握する。一歩引いた、「入り込んでいない」どこか他者性を感じさせる目から。

善悪は関係性の中でのみ与えられるものであり、全体像が把握できないうちにはそれが善なのか悪なのか、の判断をすることは出来ないと思うのです。全体像を完璧に把握しきることはもちろん不可能です。けれど、ある程度「そういうもの」が集まったところで全体像がおぼろげながら見えてきます。そしてそれを体系化して、マップを頭の中である程度作成し、相対的な善悪をそこに与えていくことになるのでしょう。このマッピングが出来る程度に知識が集まるまでは、このスタンスを続けることになるのだと思います。評価は与えず、あくまでも情報だけを収集していく。中立的な視点から。

必ずしもAにとって良いことがBにとっても良いとは言えないし、Aにとって良いことが3年後も同じように良いとは限らないから、ある程度マッピングできたところで与える「善悪」も、あくまで一時的な仮のものでしかないという留保はつくけれども。

多分、それが私の短い人生の中でこれまで身につけてきた生き方なのだと思います。ある程度頭の中で体系を描き、その範囲内で取りうる選択肢を頭に置き、比較を続けるなかでそこに相対的な善悪を与え、その中で最善と思われる策を取っていく。それは「一時的」なものでしかないので、必然的にそこでの判断はとりあえずその場その場で凌いでいくような感じになる。いわば「仮」の決断ですね。そうやって判断を先延ばしに先延ばしにしながら、これまで生きてきたような気がします。そしてそれが最近もう身に染み付いたものになってしまっているのかもしれない。多分、これから先も。

言うてもまぁ、アウトプットが求められれば、そこに対してある程度の決断は下さねばならないし、結局その時点では評価も下さなければならないんだけど。「改善」が求められれば、必然的にそこには善悪の評価を与えなければならないし(「改善」というものは「悪」を「善」にする行為だからね)。だから、結局善悪を与えているということにはなる。そういう周囲からのアウトプットの要請(体面とかもおそらくここのアウトプットの要請に含まれる)があるからこそ、おそらく今の私が「評価を下さない」側に触れすぎることなく、ある程度バランスが取れている部分はあると思います。

もっとも、この性格のせいで最近「お前は綺麗事しか言わない」とか言われちゃうのはあるんでしょうけれども(笑)。そもそもイデオロギーがないんだから、綺麗事ばかりになってしまうのも仕方ないことではある。まぁ、それはそれとして理解しつつ、上記のようにうまくバランスを取りながら、判断つけるところはつけながらやっていくしかないよな、と思っているのですけれども。

最近、そんな感じであっという間に時間が過ぎていくんだろうね、という気がしています。果たして、何も求めなければ、何も決められないまま年取ってそうですね(笑)。気をつけようっと。