上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「出会いは実力だ。」

文化人類学者の西江雅之という人が昨年朝日新聞のコラムで言っていたことである。

そこには「誰か、あるいは何かと本当に出会うということは、当人の知識や感性のあり方を抜きにしては語れないということなのである。」と噛み砕いた説明がなされているが、本当にその通りであるように思える。

今、部屋の大掃除をしている。その一環で高校、大学のプリント、ノートをまとめて整理している。雑多に突っ込んであったのを、整理してしまえる状態にしていく作業。部屋の中に整理中のみかん箱が4つくらい並べて置いてあるような酷い状態なのだけれど。

その過程で、ひもで綴じたプリントをどうしてもふと手にとってぱらぱら読み返してしまう。そうすると、タイトルの言葉がひしひしと実感される。まさに、当時ではなく「今」出会えていたら、もっともっと違う読み方が出来るだろう、もっともっと多くのことを吸収できたであろう、と思うようなプリントが多々あるのだ。

実力のついていない当時にはその面白さがわからなかったような授業でも、今となって見返してみると、「あぁ、こんなことを言っていたのか」というようなものが多い。当時とて真面目に授業を受けていなかったわけではないけれど、実力が伴っていなかったがために見逃してしまった面白さというのは多く存在する。特に、高校の現代文のプリントとか。今の自分には結構興味をひくようなことがあるけれど、当時は何を言っているか正直判らなかった部分もある。

もったいないことをした、というのは簡単だ。けれども、たぶん、その時わからないなりになんとなく読んでいた経験があるからこそ、今につながっているのだと思う。学習というのは、そういうことの積み重ねだ。

3年のときの必修の文献購読の授業で、H先生が言っていた言葉が甦る。「わからないけどわからないなりに読んでいくのを何回か重ねて、最初は 10%の理解だったのが20%になり、それが40%になって…」というような意味合いの言葉(詳しい言い回しは覚えていないけれど)。知識は蛸壺的に単線上の積み重ねが為されるものではなく、相互に絡み合いながら積み重なっていくものなのだと思っている。他の文献を読んでいる中で、「あ、あれはこういうことを言っていたのか」とわかる瞬間もあるし、その逆もまたあり得る。それは学問の垣根を越えても起こりうる。そうやって、わからないけれどとりあえず保留のタグをつけながらでも読んでいく経験を積み重ねて、それらが相互につながっていくことによって、次第に知識の網が形成されていくのだろう。

そして、そうした知識の網が拡大していくと、今度はそこに引っ掛かる情報の数も増えてくる。今は、昔に比べてその知識の網が昔よりも大きなものになっている。そのせいで、プリントを読み返したときに自分の網に引っ掛かるものが多くなっているのだ。そうした網の大きさを、西江氏は「実力」と表している。

何か学問との出会いもそうであるし、人との出会いも同じこと。まだまだ、実力が伴っていないと感じることが多い。適切なときに適切な人と出会えるよう、そして、その出会いを見逃すことのないよう、知識と感性を磨く試みを怠ることのないようにしたい。