上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

正しさ

普段から、いろんなことを考えたり実行したりしていますが、自分が正しいことをしている、という実感がイマイチ持てません。

「正しい」という解釈

多分、正しいということに真理値はなくって、それが解釈でしかないという点に問題があると思うのです。例えば、「優しい」と解釈される行為はあるけれど、同じ行為でも人と情況によって解釈は全く違うのです。辛いときに励ます、という行為は、一般的に見れば優しさの現われかもしれない。けれども、本当はその人は放っておいてほしかった場合には、それは「正しくない」行為になります。むしろ逆効果。「怒る」という行為だってそう。長期的にみればその人のためになるかもしれないけれど、それが反発を買って、修復できない関係になってしまったら元も子もない。多分、「正しさ」もそれと同じ。それはもちろん、人と情況を見て判断しろ、って話ですけど、自分が正しいと思ってやったことでも、全く逆の効果を生んでしまうこと、というのは、実によくある。それは、正しいことについて絶対的な真理がそこにあるわけではなくて、それが解釈行為である限り常について回る問題なのだと思っています。真理があったら、それを信じてれば良いから、楽なのにね。

数値は解釈のための1つの判断材料に過ぎない

では、結局多数派が正しいのか?一概にそうは言えません。正しさを数値化してしまえば、なんとなく受け入れられやすいように見えるかもしれない。「俺のこと正しいと思う人ー?」って聞いて、100人中90人くらい手を挙げてくれれば、それは「正しい」行為、と、とりあえずは言えるのかもしれない。けれど、その挙手でさえも実際解釈行為であるわけだし、そしてその数値を読み取るのも解釈行為である。例えば、その挙手は裏で何者かによって操作されているかもしれない。あるいは、挙手した人たちは、表面上の「正しさ」に基いて判断していただけで、その裏に隠されている正しくない意図を見抜けていないだけなのかもしれない。そういうことを考え出すと、きりがないのです。結局数値を作り出すところにも解釈のバラつきは含まれるわけだし、そうやって作り出された数値を解釈するところにもバラつきは含まれる。「正しい」と解釈することって、きっと凄い不確かなことなんです。数値は解釈のための1つの判断材料に過ぎない*1

そもそも多数決っていう行為自体は、真理を見つけるためのシステムではなく、決定のためのシステムなのだから、仕方がないのです。100人中10人しか賛成しなかったことのほうが本当は価値があったのかもしれないし、100人中1人の意見が価値があるものなのかもしれない。多数決というのは、正しさは解釈に過ぎず、定まらないものであるから、便宜的に正しいと決定するための行為であるにすぎない。多いほうが常に正しいのだったら、この世に流通している多数決の結果は全て正しいということになる。法案にせよ、選挙の結果にせよ。逆に言えば、専制政治とかだってあるわけです。権力を握っているのが少数派だったら少数派の意見がそのまま正義になり得る。専制政治がうまくいくときもあれば失敗するときもあるけれど、それは結果論から付け加えられた解釈なのであって、結局、「正しい」なんてのは、誰かが決めることに過ぎないのだ。世の中の全ての人が正しいことを考えているかといえばそうではない。世の中善人ばかりではない*2。そこにはあらゆる意図が絡んでくるし、権力も絡んでくる。情報なんて、簡単に操作出来てしまうものなのだしね。

「正しい」という物事が定まっていると便利だから、色々な方法を用いてその正しさを決めようとしているわけです。

解釈のズレ

そして、そうやって出てきた他者の解釈(他の人が正しいと思う事柄)、あるいは、他者の解釈の総体(一般的に正しいと思われる事柄)と、自分の解釈(自分が正しいと思う事柄)のズレが発生したときに、必ずしも自分のほうが正しい、という自信が持てないのです。

多分、僕は解釈のプロセスが人よりひねくれているという自覚があるんだと思う。それが、自分が正しいという実感がイマイチ持てていない(=自分の解釈を信じきれない)要因でもあると思うのです。多分、自分が多数派であることが多いのならば、そこに違和感を感じることは少ないのかもしれない。もしそうならば、多分自分がそこまでひねくれているとも思わないし、ある程度、自分が正しいという実感も持てて、自信も持てるのかもしれない。けれども、どうも僕は少数派であることが多いらしく、人との解釈の間に違和感を感じてしまうことがある(表面的にはそういうそぶりをしていなくても)。そのとき、自分がひねくれているという実感があるから、すこしでも「まとも」な、多数派への憧憬を捨てきれないのです。自分に対して疑いを持ってしまう。自分を信じきれないわけですね。ただ、必ずしも多数派のほうが正しい、というわけではないのがまた問題であるところ。多いほうが正しい、ということをすんなりと受け入れられていたら、それはそれで、あまり悩むこともないと思う。けれども、どうにも多数決の結果に首を傾げてしまいたくなることもあるのです。そこらへんが、ひねくれものがひねくれものであり続ける所以。その辺を、行ったりきたりしているんだと思います。

正しさが真理ではなく解釈である以上、この「自信」が大きな影響力を持つことになる。真理ならそれをすんなりと受け入れられるのだけれど、それが解釈であるのなら、それを受け入れさせるための何かが必要だ。自分の解釈が正しいか、人の解釈が正しいか、それを最終的に納得させるのは、もちろん論理性とかもあるけれど、そこには自信が結構絡んでいる部分が多いのだと思う。自分をどれだけ信じられるか。論理では片付かない「正しさ」というのも、世の中には結構あるし、微妙なところでせめぎあっている「正しさ」というのも、結構あるから。そしてその、自分をどれだけ信じられるか、というところには、努力だとかそういう要素が絡んでくるのだろうね。そういう意味でも、僕にはまだまだ、自信が足りていない。

関係ないけど

僕が「真っ当」という言葉を使う背景には、多分こういう意識があるのだと思います。自分はその正しさを100%信じられるわけではないのだけれど(多分90%くらいは信じていると思うけれどね)、そちらのほうが多数派であり、一般的に「正しい」と思われているような事柄に対して、「真っ当」という言葉をよく与えているのだと思う。本当はもっと価値のある事柄があるのかもしれない、とか、自分の解釈のほうが「正しい」んじゃないかと思うけれど、そちらのほうが多数派で、一般的にも認識されているような事柄。多分、そこには、自分がそれをもっていないような事柄に対する嫉妬も若干混じっているかもしれない(笑)。

まとめ

僕は人の視線に結構敏感に反応してしまうので、どうやったら「正しい」方向に持っていけるんだろう、ということを、常に考えている気がします。けれども、結局、そういうことを考えたところで、答えは出ない。それは、「正しい」と認定することは、解釈でしかないから。そして、このような、正しさに関する解釈に違いが存在する限り、多分、これからもずっと、自分が正しいのか、周りの事柄は正しいのか、ということについて、答えの出ない問いを続けることでしょう。

正の字がゲシュタルト崩壊したので、このへんで(笑)。

裁判員だってそうだよ

…ということが最近まとまりつつあります。裁判員に選ばれた人って、どうするんだろうね。自分(たち)が下した判断が正しいなんて僕には絶対言えないし、それによって人の人生を左右するなんてことを考えてしまうと。多分、そういうところの責任に弱いだけなのだろうけれど…。

*1:だから、偏差値だとか、志望校の合否判定が表すものに対して昔からあまり価値を見出すことが出来なかった。そもそも試験問題が正確に「正しさ」を判定出来ているかどうかも不確かだし、その試験を受けた結果をどのように解釈するかも不確かだ。この場合の正しさは、入学資格としての正しさ、として。

*2:僕が基本的に性悪説なだけなのかもしれないけれど