上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

動機なんてあるのか

昔、何かしら事件の報道があったときに「周囲からその人の行為をさもわかったように読み解く」報道が流行りすぎていやしないか??と思うことがある、っていう文章を書いた。結局色々考えた末に載せなかったんだけど、ふと、このタイミングで載せてみようと思って(笑)。

納得のための情報

多分、人は何かしら文脈付けて、納得しようとするんだと思う。

当人が書き込んだ掲示板の文章だとかが繰り返し繰り返し報道されたりとか、「小学校からの親しい友人はこう語る」みたいなのがやってたりとか。で、アナウンサーとかちょっとしたコメンテーター風の人が出てきて意見を述べるなり、ナレーターが何らかの意見を述べるなり。そういうのが報道上に溢れている。誰かが何かしました、と言えば、ブログにはこんな書き込みがありました、とか。色んなところを穿り返して、何かその人に関する断片的な情報を集めてきては、わかったように何かを見出そうとする。で、それを見た俺らも、何かわかったような気になって、「あぁ」とかいって頷いていたりする。要するに、与えられた情報に誘導されて、与えられた判断に「納得」するわけだね。

そりゃ確かに「動機の解明」は必要なのかもしれないけれど、それは必要な部分だけを警察に任せておけばいいんじゃないの??余計な情報をひっくり返してきて、話したくもない人に話させて、辛い思いをさせて、それで視聴者に何が伝わるんだろう。それに、他人に抱くイメージなんて、人によっていくらでも変わりうるもんだし、そもそも完全な情報なんてものは幻想に過ぎない。その人だって断片的な情報を知ってそこから自分の主観に照らして何かを述べているに過ぎないわけだし。そりゃ確かにそれを見て何かしら思わないことはないけれど。それに、当人が語った言葉であっても、いくらでも嘘になりうると思うんだけど。イメージを作り出すための言葉だってあるし、やり場のない言葉を別の形で表出した言葉もあるし。それで何がしたい。

そういうのは解釈することしか出来ないんだろうけれど、結局表向きに出ているものから完全に解釈をする、ということはできないのであって、その辺の心理の先生とか引っ張ってきたところで、断片的な情報だけではなんとも言えないと思うんだけど…。そこに至るにはとても複雑な背景みたいなのがあると思うし、1ヶ月や2ヶ月のものではないんじゃないかと思う。それこそ、全人生全てが絡んでくると言っても過言ではないくらい。ヒトの考えっていうのは、そういうもんだと思うのだけれど。まぁ、人生全てかいつまんできました、みたいな報道も見られるけど、そういうのもどうかなぁ、って思うのだよね。情報を自分の解釈に使いやすいところだけを引っ張ってきて考えていたりとか。結局ステレオタイプに解釈しようとしていて、それに収まらないものは「猟奇的」とかのレッテルを貼って、わからないものとして片付けるとか、わかったふりをして実は理解しないまま、どこかへやってしまうような気がする。ステレオタイプだけで全てが片付いたら物事は綺麗に収まるよね。

「それは太陽のせいだ*1」って言ったって、それは立派な動機だと思うんだけど。本人だけにわかる、ね。

うーん、別に、こういう報道をするなと言いたいんじゃなくって(こういう報道が良い、と考えている人もたくさんいるでしょうからね)、なんか主観が混じっているような気がしてどうかと思うのです。判断は俺らがすればいいじゃん、とか思ってしまう。判断はいらないから、ただ事実だけを伝えてくれればいいと思うんだけどな。でも、事実だけを伝えたらそれこそつまんないと感じる人は多いだろうし、事実だけを伝えると情報が少なすぎて、放送の枠が余ってしまうっていうのもあるんだろうし、そういう色んな情報を見ては想像を膨らまして共感することを求めている人が多いのも事実なんでしょうね。世間的な需要がそのへんとか、色々な要素が絡み合ってこういう形態の落ち着いていると思うのだけれど。まぁ、色々なバランスを考えるとこういう報道形態に落ち着くのも無理はない、のかもね。多分、色んなものを引き伸ばして24時間の枠に押し込めているんでしょう。そんなたくさん情報あるわけないよな。

あぁ、こんなこと言うつもりはなかったのに、「文句」になってしまった。よくないね(笑)。こういう人は、黙って新聞なりネットなり何なりで必要な情報だけを集めるようにすればいいんです。うん。新聞なんかまさにそうだよな。おとなしくしています(笑)。

ここから話はずれるんだけども。

で、まぁ、こういうのは割と日常的な行為にも言えることであって、他人が不機嫌だったりとかしたときに、つい理由を考えてしまうわけですよね。断片的な情報から。で、個人的な解釈をつけて、推測しようとする。こういうとき、本人に「疲れてる??」とか、「怒ってる??」とか聞ければ良いんだろうけれど、聞けないときはまぁ、自分自身の体験に照らし合わせるとかして、解釈するわけしかないですよね。ここでも、多分与えられているのは、断片的な少ない事実に過ぎない。表情とか、言動とか。その人の人生全てがわかるわけではないし。

ただ、「それは太陽のせいだ」と一緒で、時々、なんとなく、っていうときもあると思うんですよね。俺なんか、実は、結構そういうときがあって…。そういうとき、割と、どう反応していいか困る。自分としては別になんともないんだけど、人によって不機嫌に見えることも多いらしい。あとはまぁ、何か考えているように見られたりとか。実は何も考えてなかったりとか、すっげーくだらないこと考えてたりとかするんだけど、実は何か高尚なことを考えているように見えたりとか。だから、普段は頑張って、別に不機嫌でないように振舞っていたりするんだけど、時々めんどくさくなってそういうガードを解いてしまうときがあって、そういうときには不機嫌に思われるらしい(笑)。逆に、「え、大丈夫??」とか、「疲れてる??」とか、気を遣ってもらうと、若干申し訳なくなったりする。あるいは、「あー、今不機嫌に見られてるんだろうなー」って思ってたりとか(笑)。ただめんどくさいだけだったりするんですけど。あー、他人から見たら、相当めんどくさいやつだな(笑)。

そういうのって、文脈付けなんですかね。結局。うーん。こういうところが、マイペースだと感じたり、真っ当じゃないと思ってしまう所以なんだろうな。実際、めんどくさい性格であることに変わりはないんだけど(笑)。

ただ、そうやって色々と解釈を試みてくれる人がいること事態は非常にありがたいことであるし、また、自分としてもそうやって人の解釈を試みる姿勢は捨てようという気はないのですけれども。だって、人のこと理解しようという気持ちを放棄してしまうと、そこでコミュニケーションが終わってしまうと思うし。だからこそ、人との関係というのが生まれるのだと思うし、社会が成り立つんだと思う。そのためにも、自分の立ち振る舞いをしっかりとしなければならないなぁ、というのも、まぁ至極当然のことである、と思うんですけど。まぁ、でも、時々ここに若干の違和感なりを感じたりはするよね。

結局

何が言いたかったんだ、って話ですが。自分の主観だけで決め付けないようにしたいものです、ってところなのかな。色々な可能性を含ませつつ。何か、割と、俺はそういうものの考えかたをしているかもしれないな。断定しないで、留保しつつ、まぁ多分正しいとは思うけれど、みたいな(笑)。「多分」の利用頻度多いし、「俺はこう考えるけど…」っていう前置きも多いし。まとまらなくなってきたのでこの辺で。

ふと

ギアツだったらなんていうのかな

*1:元ネタがわからないひとはググってください