上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「変わること・変わらないこと」

昔書いたものを改めて読み返してみると、確かに変わっていない部分もあるけれど、確かに変わっている部分もあるのだろうな、ということに気がつく。当然のことだけれど。

問題意識みたいなのは意外に変わらない部分があって、例えば高校の卒業文集で書いたような内容は今でも問題意識として頭の中にあったりする。コアの部分、というか。けれども、では当時と全く変わらないか、と言えば、それはそうではないわけで、ここまでの3年ちょっとの間に実体験として色々な経験を蓄積し、本を読んだり話をしたりして様々な考え方に触れていく中で蓄積されたものがある。問題意識としては同じだけれど、そこに対する蓄積の厚み、みたいなものは当時とは異なる。

蓄積が多ければ多いほど、冷静な視線で問題を見つめられるのは事実で、不安や自信のなさといったものを取り除く効果がそこに見られるのかもしれない。全く見知らぬ土地に入っていくときと、勝手知ったる庭に入っていくときの違いのような。本を読んで、同じような問題意識を持っていた人の知識を吸収すればそれだけ視野は広がるのだし、自分自身1つ経験を重ねれば、次に同じ過ちを繰り返さないためにはどうすればよいかのシミュレートが出来る。そういったものを携えていけば、物事に対処するときの落ち着きといったものは変わってくるのだろう。

だから、同じような問題意識に対しても、取り組み方、対応の仕方が異なっているのだろう。昔書いたものを読み返したときに、「なんだ、高校のときと同じことで悩んでいるんじゃんか」と思うときには、何も変わっていないようにも思える。確かに、問題意識は変わっていない。おそらく、自分の中でそこに意識がある限り、それは問題であり続ける気がする。「解決した」と認定できるには相当のレベルが要求されるのだろうし、おそらく、死ぬまで認定できないんだろうと思う。実際、未解決な哲学的な問題は世の中にたくさんあるわけだし。そういう意味では、当時と問題の関心自体はなんら変わりはないように見えるかもしれない。けれども、苦手は苦手と思っていても、その苦手意識の「レベル」は確実に変わっているのであって、苦手ながらも何とか対処できるだけのやり方を身につけていっているのだ、きっと。

多分、それの繰り返しだ。まだ22年とちょっとしかこの世で生きていないわけだけれど、多分同じことを繰り返しながら生きていくんだろう。変わらないように見えているもの、変わったように見えるもの。そんなことに一喜一憂せずに、淡々と蓄積の厚みを増やしていく行為がこれからを生きていく上で一番大切なことのように思える。

多分3分後には忘れるけど(笑)。